「親不孝通り」表示板も変更

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 福岡市・天神の親不孝通りで、街路灯の表示板を「親不孝通り」に付け替える作業が進んでいる。この通りは2000年以来、「親富孝通り」を名乗っていたが、今年2月、地元商店主らによる話し合いで、以前の愛称「親不孝通り」が復活した。年の瀬になって表示板の変更作業がようやく始まり、通りには現在、新しい親不孝通りの表示板のほか、付け替え前の親富孝通り、さらには旧名を塗りつぶした状態のものまで混在している。

 この通りの由来等については、ちょうど2年前
「親不孝通り復活?」で取り上げたことがあるが、もう一度簡単におさらいしておきたい。正式名称は天神万町通りで、昭和通りと那の津通りを結んでいる。那の津通り沿いに1970年代、九州英数学舘、水城学園の地元予備校2校が相次いで開校したことが、親不孝通り誕生の要因だったことは間違いない。

 この2校の生徒たち、つまり現役で大学に合格できなかった親不孝者たちが通学のため、ここをゾロゾロと通っていたことで70年代後半(一説によると、78年頃)、親不孝通りの愛称が生まれたと私は記憶している。恐らく、当時を記憶する福岡市民の多くが同様の意見ではないかと思う。

 ところが、通りの名称問題を報じた地元紙・西日本新聞が異論を唱えだした。2015年10月30日朝刊で「1970年代、近くの予備校に通う浪人生たちが勉強をよそに居酒屋に出入りする姿から『親不孝通り』と呼ばれた」と報じたのだ。「親不孝通り復活?」を書いたのは、通りに飲食店などが進出しだしたのは愛称誕生後だった記憶があり、記事に違和感を覚えたのがきっかけだった。

 この時に調べた結果、愛称誕生以前、夜の通りは「完全に真っ暗」だったが、ポツポツと飲み屋は存在したとわかった。中にはこれらの店に出入する予備校生がいたかも知れないが、通りの愛称の由来になる程、そんな不心得者が多数いたとは到底考えられない。いくらおおらかな時代だったとはいえ、浪人生活はそんな甘いものではないだろう。しかし、西日本新聞はどうしても「飲み歩く予備校生」のせいにしたいらしく、表示板の付け替えを報じる今月の記事でも同様のことを書いていた。

 親不孝通りの復活を巡る記事では、ほかにも疑問を感じるものがあった。例えば、NHKをはじめ複数のマスコミが「非行の温床」になっていたから、2000年に親富孝に変えたと報じていたが、そうではない。

 1980~90年代、この通りには多数の飲食店などが立ち並び、九州一円から多くの若者が集まるようになったが、同時に治安も悪化、名前が悪いと考えた地元の中央警察署が1997年、「親不孝通りの名前を使うな」と要求したのだ。署側はすぐに要求を引っ込めたが、市は従い、観光案内書などから親不孝通りの名前は完全に消えた。しかし、不景気もあって通りが次第に寂れていく中、地元は2000年、全盛期の愛称復活に動いた。だが、警察が嫌った名前に戻すことにはためらいがあったのか、妙な当て字を選んだのだ。

 親富孝通りの表記は、あまり評判が良いとは思えなかった。これが名実ともに消え去ることになり、歓迎している人は恐らく多いことだろう。
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廃棄された完全形の鏡

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 福岡市博多区井相田の仲島遺跡から、銅鏡が完全な形で出土し、現在、同市早良区の市博物館で展示されている。中国・後漢で1世紀末から2世紀前半頃に作られたとみられる内行花文鏡(ないこうかもんきょう)で、直径はやや小ぶりの11㌢。子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の文字が刻まれている。福岡市内で割れていない鏡が出土するのは極めて珍しいらしいが、有力者の墓に副葬されていたわけではなく、不思議なことに弥生時代後期後半(2~3世紀)の土器片と一緒に廃棄されたも同然の状態で埋まっていたという。

 博物館で、ガラスケースの中に展示された現物を見てきた(写真上)。単に割れていないというだけではなかった。錆一つないうえ、鏡面はツルツルに近く、同博物館に展示されている他の数々の銅鏡(写真下)と比べれば、状態の良さは歴然だった。仲島遺跡は、博多区井相田と大野城市の旧・仲島地区(現在の地名は仲畑)にまたがる弥生時代から奈良時代にかけての集落遺跡だが、館内の説明パネルによると、鏡が見つかったのは集落の外れの窪地、または川に面した場所。鏡のすぐ上の地中には焼けて炭化した板の痕跡があり、更にその上に土器片が埋まっていたという。「何らかの祭祀行為の累積」というのが発掘担当者の見立てだ。

 しかし、いくら祭祀だとは言え、破片でさえ所有者の権威の象徴だったとされる貴重な鏡を、完全無欠の状態のまま惜しげもなく埋めてしまうものだろうか。青銅器等の埋納について、専門家の見解は往々にして「祭祀」や「呪い」だが、素人考えながら、今回の事例ではもっと俗っぽい事情を想像した。鏡は盗まれ、地中深くに隠されたのではないか、と。欲に駆られての犯行というより、狙いは所有者、恐らくは集落の有力者の権威を貶めるため。もちろん、何一つ根拠はないが、クニ同士の戦乱が続いたとされる北部九州の弥生時代、内部の権力闘争も激しかったのではないかと思ったのだ。

 仲島遺跡の大野城市側からは1981年、中国・新時代(1世紀)の貨幣「貨布」が出土している。同時に出土した土器(須恵器)片から、古墳時代の6世紀後半に埋まったものと推定されるが、大野城市教委は製造から間もない弥生時代にこの地にもたらされたとみている。同遺跡の弥生時代の遺構からはこのほか、中国鏡の破片なども出土しており、同市教委によると「弥生時代の仲島遺跡の集団は青銅器を保有することのできた有力集団」「奴国連合を支えた有力地域」と考えられるという。

 なお、仲島遺跡に隣接して博多区側には井相田C遺跡という集落遺跡があるが、お役所の都合で名前は別々だが、実際は一つながりの遺跡だという。同一の遺跡ならば、一つの名前でくくった方が全体像が理解しやすいのではないだろうか。


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西公園の十月桜

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 福岡市中央区西公園の光雲(てるも)神社前で、桜が咲いている。季節はずれの開花だと思い込み、ツイッターでも紹介してしまったのだが、「十月桜」という品種で、そもそも秋から冬にかけて開花する「冬桜」の一種だとわかった。中高年になっても知らないことばかりで、恥ずかしい限り。ただ、言い訳をさせてもらえれば、この桜は春にもしっかり開花するため、私みたいに秋に咲いているのを見て、狂い咲きと早とちりする人が少なくないらしい。なぜ、年に2度も咲くのかと言えば、「狂い咲きが常態化した」という説もあるというから、これが正しいのならば、妙な桜だ。

 その西公園、さくら谷からもみじ谷を経由して鵜来見亭方面に通じる遊歩道が真っ黄色に舗装された。舗装前は砂利道。自然を売りにした風致公園なのだから、舗装は必要ないのではと思ったが、ベビーカーや車いす利用者にとっては散策しやすくなることだろう。

 西公園は1881年(明治14)に開設された荒津山公園が前身で、1900年(明治33)に県営の西公園となった。17㌶の敷地内には、先の十月桜を含めて1,300本の桜があり、「日本さくら名所100選」に福岡県内からは唯一選ばれている。だが、桜の数は3,000本と言われた往時に比べて激減。また、松などが生い茂って視界を遮り、かつて貝原益軒が福岡藩の地誌『筑前国続風土記』の中で「此山にのぼりて四方をかえり見たる景色、いつも見るたびに目を驚かし、時々につけて人の心をうごかせり」と絶賛した眺望は見る影もない。(
「1,300本に減った西公園の桜」「眺めが残念過ぎる西公園」

 近隣には同じ県営の大濠公園があり、大きな池を取り巻く延長2㌔の散策路は連日夜遅くまで、ジョギングや散歩を楽しむ市民でにぎわっている。標高50㍍の荒津山に整備された西公園は適度な起伏があり、こちらを好むジョガーも少なくないのだが、木々のために場所によっては昼でも薄暗く、今年9月の県議会では、議員から「大濠公園のように、夜でも安心してジョギングやウォーキングができるように環境整備を」という声が上がっていた。黄色の舗装は、恐らくそういった要望に応えてのものだろう。

 園内には閉店した茶店の建物が残り、廃虚化を心配していたが、いつの間にか取り壊され、更地になっていた。散策路沿いでは、木々の剪定も続いている。県も西公園の現状に目を向け始めたようだ。
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失われた「がっしゃい言葉」

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 福岡市には昔、博多弁とは全く別の「がっしゃい言葉」という方言があった。藩政時代、武士階級の間で話されていた言葉で、例えば「こっちに来てください」は「こっちに来てがっしゃい」、「行かれる」は「行きがっしゃる」と使われていた。中央区の旧武家町では、戦後も高齢者の間で話されていたと言われるが、現在は消滅状態らしく、福岡市に長年住んでいる私も、この言葉が話されるのを一度も聞いたことはない。文化庁はアイヌ語や沖縄県の八重山方言、与那国方言などが消滅の危機にあるとして、保存、継承のための取り組みを行っているが、がっしゃい言葉は誰に守られることもなく静かに消え去ったようだ。

 がっしゃい言葉の存在を初めて知ったのは、福岡シティ銀行(現・西日本シティ銀行)が発行していた小冊子『博多に強くなろう』でだった。このシリーズの中に1981年、秀村選三・九州大教授、イラストレーターで博多町人文化連盟理事長でもあった西島伊三雄さんらが城下町・福岡の町並みについて対談した回があり、この中で西島さんが「先生、ついでに昔の福岡のがっしゃい言葉を覚えてあるなら、ちょっとお話ししていただけませんか」と持ち掛け、これに秀村教授が「私が少年の頃は、『どうしてがっしゃあな』とか、『貸してがっしゃい』『おいでない』なんて言ったり、聞いたりしてましたね」と答える箇所があったのだ。

 秀村教授は1922年(大正11)の生まれ。戦前、がっしゃい言葉が当たり前に使われていたことが先の発言からわかる。一方で、教授は「このごろは『どうしてがっしゃあな』なんていうと妙な目で見られるので、『どげんしてござあですな』と言ったりしますね(笑)」とも話しており、この対談が行われた昭和後期には、がっしゃい言葉は消滅寸前の状態だったのだろう。西島さんは、がっしゃい言葉について「私たち博多のものからすれば、やっぱり城下町の言葉だなあ、と思って聞いていましたね」と語っており、博多弁に比べ上品、あるいは堅い言葉だと認識されていたようだ。

 がっしゃい言葉についての資料は、他には市総合図書館にもほとんどなく、唯一、春日市在住の方言研究家が2005年にまとめた『がっしゃいことば 福岡城言葉』という3ページの小冊子があるだけだった。この冊子には研究家が聞き取りなどで集めた30あまりのがっしゃい言葉が、その現代語訳とともに紹介されている。収録されている言葉のうち、いずれも下級武士を皮肉った「たにわくろう」「ちんちくどん」などは比較的有名だと思うが、「しかちゅーこいとる」(不手際なこと)、「しゃんしゃん」(武家娘)、「とんとん」(武家息子)などは未知の言葉だった。がっしゃい言葉は、黒田家の故郷の備前岡山弁と博多弁が交じって生まれた、というのが著者の方言研究家の見立てだ。

 『九州方言考―ことばの系譜』(読売新聞社、1982)という本の中で、作家の原田種夫さんは「昔は、那珂川を境として、川の東が町人の町として博多方言、西が士の町として福岡方言を使っていた。おそらく、画然と言語生活に違いがあったと思う」と書いている。なのに、なぜ博多弁は生き残り、がっしゃい言葉は消えたのか。約30万人とされる福岡藩の人口の中で、武士階級が占める割合は数%。もともと使い手の少ない言葉だったため、近代化の波にあっさりのみこまれたのだろうか。(写真は西公園・光雲神社の母里太兵衛像)
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10万匹の野良猫

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 福岡市の推計によると、市内には10万匹の野良猫がいるらしい。もっとも、この数字は独自の調査に基づくものではなく、他都市の生息密度から計算しただけの代物で、どの程度の信頼性があるかはわからない。ただ、市が屋外で回収している猫の死体が毎年6,000~8,000体に上っていることを考えると、相当数の野良猫が生息しているのは間違いなく、市議会でも度々、野良猫対策が取り上げられている。

 ひとくちに野良猫対策と言っても、動物愛護の観点から質問する議員もいれば、野良猫を害獣と考え質問する議員もいるが、両者とも「地域猫」活動を広げるべきだという点では一致している。地域猫とは、野良猫を去勢したうえで、地域住民やボランティアが協力して一代限り世話をしようという試みだ。福岡市では2009年度からこの活動に取り組み、現在までに73地域が指定を受けている。指定地域では原則1年間、最長で2年間、野良猫の去勢費用を市が負担することになっており、昨年度までに2,000匹弱が去勢手術を受けたという。

 手術を受けた目印として、福岡市ではオスは右耳、メスは左耳の先端をカットすることになっている。よく散策している中央区西公園には多数の野良猫が住んでいるが、早良区百道浜辺りにいる警戒心の強い猫たちに比べ、西公園の猫たちは非常に人慣れしており、以前から不思議に思っていた。これらの猫たちは、どれも丸々としていて毛並みが良いが、時折、彼らの写真を撮っているうちに、どの猫も耳がカットされていることに気付いた。単なる野良猫ではなく、地域猫だったのだ。

 上の写真は、西公園でよく見掛ける猫たちで、一番上のキジ猫はいつも陽だまりで思い切り体を伸ばして昼寝をしている。すぐ横を通ってもチラッと顔を上げる程度で、人間が自分に悪さをするとは全く思っていないようだ。この写真ではわからないが、この猫をはじめ3匹とも右耳がカットされており、全てオスだとわかる。人間に捨てられ、野外生活を強いられている猫たちが幸せなはずがないとは思う。それでも一般的な野良猫たちに比べれば、これらの地域猫たちはまだしも恵まれているのだろう。市内に10万匹の野良猫がいるという推計がある程度的を射ているのならば、地域猫は、そのうちのわずか2%だ。
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「郷土の英雄」磐井

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 筑紫君磐井の墓と推定される八女市の岩戸山古墳横に2年前、岩戸山歴史文化交流館が開館した。岩戸山歴史資料館の老朽化に伴い、八女市が8億7000万円を投じて建設した新資料館。旧資料館は入館料130円と格安ながら、同市の鶴見山古墳出土の武装石人など数々の国重要文化財が展示され、以前このブログの中で、「“羊頭狗肉”ならぬ“羊頭松阪肉”のような驚きのある資料館だった」と紹介したことがある(「岩戸山古墳の新資料館」)。新資料館建設には巨費を費やしたのだから、当然、入館料は値上げされるだろうと予想していたのだが、12月3日、初めて交流館に行き、驚いた。無料だったのだ。例えが悪いかもかもしれないが、大きなエビ天で人気になった蕎麦屋が店を建て替えると、概ねエビは小さくなるものだが、逆にエビが2匹に増えたような感じだった。

 交流館は、岩戸山古墳をはさんで旧資料館の反対側にあり、館内から岩戸山古墳に通じる順路も整備されている。施設は鉄骨平屋2,000平方㍍、このうち常設展示室は840平方㍍の広さで、旧資料館の2倍。旧資料館と同じく、武装石人をはじめとする石人石馬(この多くが国重文)が展示の中心だが、説明パネル等は以前よりも充実し、磐井について、ヤマト王権に背いた逆賊ではなく、「郷土の英雄」という視点からスポットを当てている。2年前の博多祇園山笠では、新天町の飾り山の主役に磐井が選ばれたことさえあり、磐井を英雄視する考え方は、少なくとも地元・福岡では、もはや異端ではない。

 岩戸山古墳からの帰路、寄り道して久留米市の紅葉の名所、柳坂曽根のハゼ並木を歩いてきた。幕末、久留米藩がロウソクを特産にするため、ハゼの植林を奨励したのが始まりで、約1・1㌔の道沿いに200本が植えられ、ロウソク作りが廃れた今も住民たちによって大切にされている。残念ながら見頃は過ぎ、大半の木は落葉して黒い実ばかりが目立っていたが、一部の木はまだ真っ赤な葉が陽光に輝いていた。

 このハゼ並木から徒歩数分の場所には、実はここに勝るとも劣らぬ紅葉の名所がある。並木の東側に福岡県農林業総合試験場の出先があるのだが、この敷地内の東端にスギに似た木の並木があり、この木々の葉が秋には見事なオレンジ色に変わるのだ。試験場のウェブサイトを見ても樹種についての説明はないが、葉の形から判断して恐らくメタセコイアだろうと思う。ハゼ並木とは試験場を挟んだ別の道沿いにあるため、2種の木の紅葉を同時に見られないのが惜しい。
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