ミノムシはどこに

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 福岡市中央区の西公園や大濠公園を、ひたすら木々を見上げながら歩き回ってきた。何が目的だったかと言えば、ミノムシを探していたのだ。私たち中高年が子供だった昭和時代、秋冬になると、木々には数多くのミノムシがぶら下がっていた。しかし、最近はまったく見かけない。天敵のハエが日本国内に侵入し、ミノムシを餌食にしているためだという。西公園を散策中、この話をふと思い出し、ミノムシを探してみようと思い立った。注意深く探せば、1匹ぐらいは発見できるだろうと思っていたが、西公園を彷徨し、さらに探索場所を大濠公園に変えても、その1匹が見つからなかった。

 ミノムシは言うまでもなく蛾の幼虫で、その代表的なものがオオミノガだ。ミノムシの激減に気付き、天敵の出現を突き止めたのは地元・九州大の研究者で、街の木々からミノムシの姿が減ったことを不審に思い、1995年に調査を始めたところ、ミノムシに何者かの幼虫が寄生し、餌としていることが判明した。幼虫の正体を特定するため、羽化を待ったところ、中国などに生息する寄生バエ、オオミノガヤドリバエだとわかったという。

 オオミノガヤドリバエについて、国立環境研究所の「侵入生物データベース」には、日本への侵入経路は不明としながらも、「中国山東省では1990年代初頭にオオミノガ駆除のための天敵として利用されたことがあり、山東省由来と推測されている」と記されている。生物農薬として利用された程の天敵が襲来したのだから、ミノムシの姿が街中から一気に消え去ったのも無理はない。

 オオミノガは2001年、福岡県のレッドデータブックで絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の恐れが増大している種)に指定されている。絶滅の恐れが増大どころではなく、もっと危機的な状況ではないかと思うが、同書によると、「現在でも本種のごく少数の集団が県内各地で時折観察され、完全な絶滅には至らない」という。

 なお、同書には「鳥などの天敵が少ない市街地や村落などに1955年までは極めて普通で、冬季の枯れ枝先の休眠幼虫は冬の風物詩とまでいわれた。しかし、1955年に日本各地で確認された外来種と思われるオオミノガヤドリバエの寄生によって関東北部、四国南部を除いてほとんど絶滅状態になった」と書かれているが、九大研究者によるオオミノガヤドリバエ発見の経緯を考えれば、1955年は1995年の誤りだろう。そもそも私が生まれる以前から絶滅状態だったのならば、子供時代にあれほどのミノムシを見かけたはずがない。暇な時には意味もなくミノを切り開いて遊んでいたのだから。

 この記事を書くに当たり、オオミノガについて少し調べてみて、驚くことがあった。ミノの中で冬を越した幼虫は、サナギを経て春から初夏にかけて羽化するのだが、いわゆる蛾の姿に変わるのはオスだけ。メスは羽が生えないどころか、幼虫時代にはあった肢さえ失い、ミノの中にとどまるのだ。外を飛び回るオスにしても食べ物を摂取する器官はなく、メスを探して交尾を終えると死に、メスも産卵後には一生を終える。しかし、そうやって残した子孫たちが次々に天敵に食い尽くされ、種の存続の危機に瀕している。昆虫の話とは言え、いたましい。

 ミノムシのミノを切り開いて遊ぶなど、むごいことをしていたものだと、今さらながら反省している。
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電気柵の恐怖

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 先日、大野城市の「御笠の森」に行ったついでに、同市の仲畑地区を歩いてきた。私がこの街に住んでいた1970年代は、仲島、畑詰という二つの地区に分かれ、まだ農村の面影を色濃く残していた。田畑だけでなく、電気柵で囲われた牛の放牧地さえあり、バカな小学生だった私は不用意に電気柵に触れ、吹っ飛んだこともある。

 放牧地があったのは、友人宅から別の友人宅に通じる細い道(通学路でもある)沿いで、確か数頭の牛が放し飼いされていた。道を挟んだ反対側には畑が広がっていた。はっきり記憶していないが、電気柵には恐らく「危険」「触るな」などの注意書きはあったと思う。あったからこそ本当に電気が流れているのか、確かめようとしたのだろう。「不用意に」と書いたが、本当は確信犯で、ある日、友人と二人、ポケットにあった10円玉でそっと電気柵に触れたのだ。

 この時まで、電気とはビリビリするものだと思っていた。だが、違った。10円玉が柵に触れた途端、いきなり右肩にドンという衝撃が来たのだ。気付いた時には道を挟んだ畑の中で、友人と二人尻餅をついていた。本当はあまりの衝撃に思わず自分で飛び離れたのだが、「畑まで吹っ飛んだ」というのが実感だった。命拾いしたとも思った。

 この後しばらく、自分の愚かな行為を棚に上げて、「子供が通る道に電気柵を設置するなんてとんでもない。感電死したら、どうするのだ」と勝手に怒っていた。しかし、私と友人が感電死しなかったこと自体が、ちゃんとした電気柵だったことを証明するものだと後年知った。電気柵は電圧こそ高いものの、非常に短い時間しか電気は流れない仕組みのため、危険はないらしい。静岡県で2015年7月、シカの侵入防止用の電気柵が原因で2人が感電死する事故が起きたが、これは安全措置が講じられていない自作の電気柵だったために起きた悲劇だという。

 この感電体験談、長じて飲み会の席で披露すると、結構受けた。電気柵に触るバカな行為が面白がられたわけではなく、「通学路沿いに牛の放牧地があるなど、どれだけ田舎に住んでいたんだ」と。仲島、畑詰地区は、今では仲畑1~4丁目に再編され、住宅や事業所などが密集する地域に変貌した。人口急増で小学校も新設され、校区が変わったと聞く。放牧地はおろか、田畑さえ消えた地区内を歩き回り、見覚えがあったのは古びた神社ぐらいだった。ただ、小学生の頃には気にもかけなかった神社の名前を確認すると、井相田宝満宮…。井相田とは隣の福岡市博多区の地名だ。小学生時代、大野城市から飛び出し、博多区でも遊び回っていたことを初めて知った。
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大野城の「御笠の森」

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 以前から気になっていた大野城市山田2の「御笠の森」に行ってきた。神功皇后の笠が突風で飛び、この森に引っ掛かったことから名付けられたという伝説を持ち、明治時代まであった御笠郡(旧・筑紫郡の一部で、現在の大野城、筑紫野市などに当たる)の名の由来ともなった由緒ある森だ。博多を流れる石堂川も、この辺りでは御笠川と呼ばれている。この森の何が気になっていたのかと言えば、小学校高学年時代にこの付近に住み、森は生活圏のど真ん中にあったはずなのに、全く記憶にないのだ。

 つい先日のことも覚えていない人間ではあるが、ボロ自転車で近隣はおろか、別の小学校区まで走り回っていた小学生時代の記憶は結構鮮明だ。なのに御笠の森については写真を見ても全く見覚えがなく、現地に行ってみても何一つ記憶はよみがえらなかった。繰り返すが、かつての生活圏のど真ん中に森はあり、住んでいた家や通っていた小学校も近くにあった。高学年になっても虫取りに明け暮れていた当時の行動パターンを考えれば、必ず行ったことがあるはずなのだが、私が住んでいた1970年代当時と比べ、街並みがあまりにも様変わりし、実のところ、かつて暮らしていた街は森以外も完全に未知の場所になっていた。

 御笠の森があるのは、大野城と飯塚とを結ぶ県道バイパス沿い。昔はなかった片側2車線の広い道で、御笠の森の周囲には戸建て住宅やマンションが立ち並んでいる。森にはスダジイ、タブノキ、ヤブツバキ、ヤブニッケイなどが自生(?)し、「西南日本の代表的照葉樹林の姿を残す」として1995年5月、大野城市の天然記念物に指定されている。ただ、森の広さは、せいぜい住宅2~3軒分といったところで、木の数も十数本程度。生態系的には貴重な存在なのかもしれないが、規模的には非常にちっぽけものだ。私が住んでいた頃もこの一帯はすでに住宅地ではあったが、所々農地も広がり、また、この程度の樹林は神社はもちろん、大きな農家の庭先などにもあった。森など当たり前の存在だったから、印象が薄いのだろうか。

 御笠の森は、貝原益軒が編纂した福岡藩の地誌『筑前国続風土記』に、「むかしは大木多くありて、茂れる林なりしが、今はむかしの森のしるしとて、楠二株残れり」などと記録されている。『続風土記』は1709年(宝永6)の完成で、この時代にはクスが2株残っていただけなのだから、現在の森はそれ以降に形作られたものだろう。神功皇后伝説に彩られているとは言え、古代の姿を残しているものではないわけで、実際に見た印象もそれほど歳月を経た森には思えなかった。

 『続風土記』にはまた、御笠の森に絡み、「思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん」(末尾を「神し知らしむ」とする資料もある)という万葉歌が記されている。別の資料には、不義の疑いをかけられた女性が夫に潔白を訴えた歌だという解説があったが、歌の作者は大宰府の役人だった大伴百代という男性で、この解釈は恐らく間違いだろう。森には1969年、当時の大野町によって建立された万葉歌碑があり、この歌が刻まれている。
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ワシントニアパーム

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 この冬一番の寒さとなった12日午前、福岡市早良区のシーサイドももち海浜公園を散策していて、冷たい海風に葉をなびかせるワシントニアパーム(ワシントンヤシ)が目に付き、写真に収めてきた。宮崎市などでは南国ムードを演出している木だが、名前で想像がつくように実際は北米原産。意外に寒さに強く、氷点下数度までは耐えられると聞く。数十年前の中学時代、宮崎に修学旅行に行き、初めてこの木を目にした時は、少々大げさに言えば「ここは日本か!」と驚いたものだが、素性を知ってしまった今、福岡の人工海浜で寒風に耐えるワシントニアパームを見ても、南国情緒などかけらも感じられない。

 このワシントニアパーム、幕末、外国人によって長崎に持ち込まれたのが最初らしいが、宮崎では1960~70年代、街路樹として800本あまりが植えられた。発案者は、宮崎交通の創業者で「宮崎観光の父」とも呼ばれる岩切章太郎氏(1893~1985)で、岩切氏はワシントニアパームだけでなく、フェニックスやブーゲンビリアなどの植栽を進め、宮崎を彩った。岩切氏の観光開発の手法は、自ら「大地に絵を描く」と評した程、大胆なもので、岩切以前と以後とでは宮崎の都市景観は全く別物に変わったのではないかと思う。古い写真で確かめると、ワシントニアパームが植えられるまで、宮崎のメインストリート橘通りには街路樹はなく、市内の緑で目立っていたのは松の木だ。

 宮崎のほか、四国の高知や宇和島など、南国を売りにしたい多くの街でワシントニアパームは植えられたようだが、冒頭書いたように九州や四国程度の冬の寒さには十分耐える上、潮風や大気汚染にも強い。どの街でも高さ20㍍前後にまで生長し、剪定が大仕事になった。かと言って放っておけば、枯れ枝が強風で落下して危険というジレンマに陥り、伐採に踏み切った街も少なくないという。宮崎でも数年前、大木に育ったワシントニアパームの取り扱いを巡り、議論になったが、段階的に若木に植え替えることで現在の都市景観を守るという結論に落ち着いた。

 福岡市内にも実は街路樹として植えられたワシントニアパームが大木にまで成長している場所がある。博多駅と博多港とを結ぶ大博通のうち、呉服町交差点より北側では中央分離帯にワシントニアパームが植えられているのだ。普通に歩いていたら視界に入らない上、南国ならぬ福岡には似つかわしくない木のためか、今まで意識して見たことはなかったが、ビルの5階ぐらいの高さにまで育っている。恐らく20㍍前後はあるだろう。博多港の再開発計画に伴い、大博通りには新たな交通機関としてロープウェーを建設しようという奇怪な構想が浮上している。それでなくとも、これほどの高さまで育っているのだから、福岡でもいずれワシントニアパームをどうするかの議論が起きることだろう。

 ところで、大博通りのワシントニアパームはいつ植えられたのか。育ち具合を考えれば、宮崎とさほど変わらない時期に植えられたとも思われ、だとしたら、宮崎以前に地元・福岡でこの木を目にしていた可能性はある。全く記憶にないが。写真は上から、シーサイドももち海浜公園、宮崎市の橘通り(2016年5月撮影)、大博通り。
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博多雑煮は戦後生まれ?

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 博多で戦前に行われていた祭りや行事、風習などをまとめた『博多年中行事』(佐々木慈寛編、1935)を読んでいたところ、博多雑煮について、気になる記述があった。

 博多では元日から三日間雑煮を祝ふが、餅は丸餅を用ひ、具には鯣(するめ)、椎茸、山芋、里芋、昆布、牛蒡、人参、鰹菜、鯛等を用ひ汁はすましである。或は角に切った鰤や鰹等を使ふ家もある。

 何が気になるのかと言えば、具にタイが入っているのだ。博多雑煮は、焼きあご(トビウオ)で取った出汁に、具はブリやカツオ菜を入れるのが定番とされている。ところが、『博多年中行事』では雑煮に入れる魚としてタイを真っ先に挙げ、ブリについては「鰤や鰹等を使ふ家もある」と、どう見ても少数派の扱いなのだ。(写真は福岡市のダウンロードサイト「まるごと福岡・博多」から借用)

 『博多年中行事』編者の佐々木慈寛とは、博多区千代3に現在もある松源寺の住職だった人物で、彼が実際に体験したり、見聞きしたりした出来事をまとめたのが『博多年中行事』。『新修福岡市史 民俗編一』(2012)にそっくり再録されているほか、福岡市博物館はこの資料を題材に企画展を開いたことさえあり、信頼性は極めて高いと思われる。

 『博多年中行事』には、博多雑煮のほかに、福岡市内の旧・武家で食べられていた蛤雑煮や姪浜の雑煮についても記述がある。蛤雑煮は「椀の底に大根を輪切りにしたものを敷いて丸餅と蛤二箇とを入れたものである」とあるが、少なくとも私は見たことがない。「がっしゃい言葉」と同様、福岡では滅びてしまった文化なのだろうか。一方の姪浜は「焼アゴ(飛魚)と昆布で汁を作り、中に餅、里芋、人参、椎茸、蒲鉾、塩鰤を入れて作り」と紹介されており、カツオ菜が入っていないのを除けば、こちらの方が現在の博多雑煮に極めて近い。

 戦前の博多雑煮について、他に資料はないかと当たってみたところ、1900年(明治33)元日の読売新聞に「諸国雑煮」という記事があり、この中で京都や備中、讃岐、大和とともに、筑前博多の雑煮も紹介されていた。それによると、出汁は「昆布と鰹節とを充分に煮出し適度の醤油を加えて」作る。具は「鯛の身、椎茸、牛蒡、里芋、蒲鉾及び青菜の類」。タイを入れることは『博多年中行事』の記述と一致しているが、それだけでなく、出汁は焼きあごではなく、昆布とカツオ節で取っていたという結構衝撃的な内容だ。

 ここで挙げた二つの資料に従えば、古くからの伝統と考えられてきた出汁を焼きあごで取り、ブリを入れた博多雑煮は、恐らくは戦後の産物だったことになる。しかも、明らかに姪浜雑煮の影響が色濃い。それぞれに個性を持っていた福岡市内各地の食文化が戦中・終戦直後の物不足の時代を経て、戦後に融合・均質化していく中で、新たな博多雑煮が形作られていったのだろうか。
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