福岡城跡で夜桜見物

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 福岡城跡の舞鶴公園で30日夜、夜桜を見物してきた。同公園では4月8日まで「福岡城さくらまつり」が開催中で、ソメイヨシノやシダレザクラなど約1,000本の桜がライトアップされ、平和台球場跡地の広場には数多くの屋台が並んでいる。30日は花の金曜日ともあり、大変なにぎわいだった。この「福岡城さくらまつり」は意外に歴史が浅く、第1回が開かれたのは2010年。初の試みに17万人が集まり、大盛況だったことから恒例行事となった。福岡市の夜桜の名所と言えば、以前は西公園の方が有名だったが、まつりが始まって以降は舞鶴公園にお株を奪われた感がある。

 ただし、まつり開催にはそれなりの費用がかかるためか、天守台一帯、多聞櫓、御鷹屋敷跡の3箇所は午後6時以降、有料スペースとなっている。入場料は1箇所300円、共通券が600円。高い場所から夜桜を眺めたかったので、天守台にだけ入場したが、天守台に通じる階段を登る際に驚いたのは、前後にいたのが中国人観光客らしき家族連れだったことだ。この数年、花見の季節には近隣諸国からの観光客が非常に目立つようになった。また、夜桜の下で大盛り上がりしている外国人グループを近年は良く見かける。日本独特の花見文化が海外にも広まっているのだろうか。
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甘木公園の桜が見事だった

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 朝倉市の国道386号線バイパスを走っていて、沿道にある甘木公園の桜が満開になっているに気付き、せっかくだからと寄り道をしてきた。中央に池を配した広さ31.7㌶の公園で、園内にはソメイヨシノを中心に約4,000本もの桜が植えられている。公園自体には過去にも来たことがあるが、桜の季節は初めてで、4,000本が一斉に満開になっている光景は壮観だった。また、散策路はゴムチップ舗装されており、歩き心地は非常に快適だった。昼食を食べすぎ、気分が悪いぐらいだったので、いい腹ごなしになった。

 昼食を取ったのは、同じ朝倉市内にあるうどん店。素うどん一杯が600円と一見高そうだが、その分、トッピングや総菜(野菜料理)が食べ放題という実は非常にリーズナブルな店だ。ランチタイムぎりぎりの時間に入ったのだが、それでも揚げたてのサツマイモやタマネギなどの天ぷらが次々に並び、ついつい調子に乗って食べすぎてしまった。この店は地元の和菓子店の経営で、和菓子店の本店に併設されている。

 店があるのは、昨年7月の九州北部豪雨で大きな被害が出た地区の一つで、和菓子店&うどん店、さらには隣接してあった和菓子店の工場も壊滅的な被害を受け、一時休業を強いられていた。豪雨直後に一帯を歩き、一変した風景に言葉を失い、復興は容易ではないだろうと想像したが、店舗はいち早く昨年10月には再開した。工場の復旧はまだだが、やがては元の姿に戻ることだろう。

 食事の後は2箇所の農産物直売所に立ち寄り、野菜等を買い込んできた。うどん店横の直売所前には広い芝生広場があり、家族連れでにぎわっていたものだが、豪雨後はこの広場が土砂の集積場所に変わり、今も膨大な土砂で埋まったままだ。その土砂から雑草が芽吹き、緑に覆われようとしていた。
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油山市民の森リニューアルへ

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 24日、今年初めて油山(597㍍)に登り、中腹にある自然公園「市民の森」に下山後、夫婦岩展望台から福岡市街地をボーッと眺めたり、ほころび始めた桜の下で昼食を取ったりしてリフレッシュしてきた。市民の森一帯にはソメイヨシノやオオシマザクラなど2,000本弱の桜があり、この数は「日本さくら名所100選」に県内から唯一選ばれている西公園(中央区、1,300本)や、舞鶴公園(同、1,000本)を大きく上回る。福岡市内では有数の桜の名所だ。

 この市民の森は、福岡市の明治100年記念事業として1967年から整備が始まり、69年4月に開園した。来年で開園50周年。市はこれに合わせて改修を計画しており、2018年度予算案には計画案策定のための費用として190万円を盛り込んでいる。半世紀の節目だけに大規模な改修が行われるのではないかと想像するが、少し気になるのは、予算案の説明資料に次の記載があることだ。「民間投資による施設整備やプログラムの充実を見据えたリニューアルプランを策定する」。

 過去にも周年事業は行われており、例えば、開園10周年では「もみじ谷」造成、20周年では「つばきの森」とアスレチック施設の整備などが行われた。この時にも市民や企業、団体からの浄財を募り、資金に充てているが、今回の50周年ではこれまでとは異なり、明らかに民間活力の導入を目論んでいる。市が、民間企業にどんな施設整備を望んでいるのかは不明だが、民間が金をかける以上、その施設は間違いなく有料となることだろう。まさか遊園地やテーマパークにあるような遊戯施設を油山山中に造るとは思えないので、考えられるとしたら、売店の拡充や飲食施設の新設などだろうか。

 市民の森は広さ約94㌶(1988年開園の自然観察の森を含む)で、現在の主な施設は、売店や自販機コーナーが併設された管理棟、自然観察センター、中央・夫婦岩の二つの展望台、キャンプ場、草スキー場、吊り橋などで、さらに上で挙げた以外にも「県木の森」「世界の樹木園」など様々な森がある。

 近年の市民の森への来園者数については資料を探し当てることができなかったが、数年前の市議会会議録には隣接する「もーもーらんど油山牧場」と合わせて年間約50万人という数字が記録されていた。最盛期には市民の森単独で年間40万人、油山牧場は50万人の来園者があったという資料もあり、大幅に減っていることになる。市民のニーズには応えきれていないのかもしれない。だとしたら、改修計画案の策定を前に、大掛かりな市民アンケートを実施し、要望を募ってはどうかと思う。個人的には、現在7箇所あるトイレの改修、増設を求めたいが。
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川南造船所跡2018

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 長崎県松浦市に行き、帰路に佐賀県伊万里市の川南造船所跡に立ち寄ってきた。戦時中に特殊潜航艇「海龍」などを製造していた軍需工場の廃墟が60年近くも放置され、マニアの間では超有名物件だったが、2012年3月に取り壊しが終わった。伊万里市は跡地に公園を整備する計画を打ち出していたが、解体完了から6年の歳月がたっても一歩たりとも進まず、今度は更地のまま放置されている。ただ、土地は全くの未利用というわけではなく、西九州道建設で生じる土砂の仮置き場として使用されているという。

 なぜ、公園整備計画は事実上、反故にされたのか? 以前にも取り上げたことがあるが、造船所跡地の背後に広がる伊万里湾の浦ノ崎地区で現在、佐賀県が浚渫土砂の埋め立てを行っていることが大きく関係している。護岸工事が始まったのは1982年度、埋め立ての完成予定は2031年度という、ほぼ半世紀がかりの遠大な事業だが、これにより約83㌶の土地が生まれることになっている。

 このうち、造船所跡地に隣接する第1工区(約30㌶)はすでに埋め立てが終わり、殺風景な土地が広がっている。佐賀県側は現段階では、この土地の活用策を明確にはしてはいないが、過去の県議会での古川康・前知事の答弁や地元紙報道から判断すれば、産業用地(工業団地)として分譲するのが既定路線。伊万里市側は約3・3㌶の造船所跡地も一体活用することを望み、公園整備をいったん、保留にした。

 だが、計画を全くの白紙にしたわけではなく、佐賀県が今後、港湾計画を改定し、埋め立て地を産業用地に転換する際、造船所跡地は緑地として位置付けてもらうというのが市側の目論見だ。しかし、陳情を繰り返しても、これが一向に進まないらしく、インターネットで公開されている伊万里市議会の会議録には、「知事はじめ、要望のときにはいい返事をされるんですけど、その後全く先に進まない、このような状態がずっと続いておるということで、私も何でこの話が県の港湾課は先に進まないのかなと、非常に最近不思議でなりません」と嘆く塚部芳和市長の答弁が記録されている。

 この答弁を読んだ限りでは、公園整備が進まないのは県側に責任があるように受け取れるが、廃虚を取り壊し、跡地に公園を整備すると決めたのは伊万里市のはずだ。なぜ、責任の主体が市から県に変わってしまったのだろうか。私にはそちらの方がよほど不思議だが。

 造船所跡地が土砂の仮置き場として使用されるのは来年2月までの予定で、少なくともあと1年は、廃虚があった頃とさほど変わらない、いや、部外者の目にはあの頃以上に寒々とした景観が残ることになる。写真は上から、今なお残る赤レンガ造りの造船所正門跡、放置された状態が続く造船所跡地、跡地の背後に広がる浦ノ崎地区の埋め立て地、埋め立て予定地の一角に残る向山炭坑の廃虚(積み出し施設跡)。いずれも3月18日に撮影した。
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筥崎宮の大鳥居、解体へ

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 福岡市東区箱崎の国道3号線沿いにそびえる筥崎宮の大鳥居が、老朽化により解体されることになった。報道で知り、10日に現地に行ったところ、鳥居はすでに工事用フェンスで囲われ、くぐれない状態になっていた。再建には5億円もの巨費が掛かると見込まれ、神社側に再建の考えはないらしい。学生時代、近辺に住んでいたこともあり、くぐったことは数限りなくあるが、だからと言って格別思い出があるわけでもない。ただ、この鳥居がなくなれば、筥崎宮参道の風景はずいぶん変わることだろう。

 地元紙の記事によると、大鳥居は鉄筋コンクリート製で、高さ16.25㍍、柱の周囲が10.30㍍。県会議長で、後に初代田川市長にもなった林田春次郎の寄進により、1930年(昭和5)に完成した。林田はほかにも数々の神社に鳥居を寄進したという。鳥居の建造には当時も巨費が必要だったことだろう。それをあちこちの神社に建てたのだから、相当の資産家だったのは間違いない。調べてみると、田川市の前身の伊田村(町)の村長・町長を長く務め、その傍ら、実業家としても一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物。戦前は町村長と県議の兼任が可能だったようで、県会議長時代は伊田町長も現職だった。

 県会議長と町長、閑職とは思えない仕事を二つも掛け持ちできるのだろうとか不思議に思ったが、『福岡県議会史』昭和篇第一巻(1957)収録の『福岡県会物語』にもっと驚くべきことが書かれていた。県会議長就任当時、林田は伊田町長のほか、県町村会長、県信連会長など約30もの公職に就いており、その数がもう少しで36に達することから「一里議長」のあだ名があったという。メートル法で育った現代人には意味がわからないが、1里が36町だったことから36長と掛けた。戦前にこんな人物が当たり前にいたわけではなく、『県会物語』には「斯く多数の公職を持った人も珍しい」とあった。

 実業家としては、1943年(昭和18)の人名辞典には林田朝鮮農事改良株式会社社長、殖産株式会社代表、小倉鉄道取締役といった肩書が書かれていた。また、県信連会長の職にあったことを考えれば、金融業にもかかわっていたと思われる。さらに1933年、福岡市(当時は糟屋郡)の香椎沖5万坪を埋め立て、畑地にするという工事計画書にも代表者として林田の名があった。

 公職だけでなく、実業家としても数々の肩書を持っていたわけで、これで町長(村長)としての務めを果たしていたのだろうかと疑わしくなるが、「夙に村治に参与して自治の発展に尽し、私財を公共のために投じて地方の振興のために寄与せり」と政治家として激賞する資料(『有栖川宮記念厚生資金選奨録』1940)があった。何より伊田村長となったのは、弱冠34歳の時で、それ以降、約40年もの間、伊田村(町)、さらに合併により誕生した田川市政のかじ取り役であり続け、当時の自治体首長の在任記録を持っていたという。戦後、公職追放となり、地方自治の表舞台から去ったが、間違いなく県政史に残る政治家だったのだろう。

 改めて見た筥崎宮の大鳥居は、結構な大きさだった。高さ16㍍超ということは、5階建てのマンションぐらいはあるだろうか。解体工事は4月末までに終わるという。
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慈恩の滝の裏側

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 大分県玖珠町にある慈恩の滝に4日、ほぼ20年ぶりに行き、滝の裏側から見た景色を写真に収めてきた。本来ならば、涼を求めて滝に行く季節ではないが、この日の最高気温は福岡でも大分でも20度超。由布院からの帰路、滝の横にある道の駅で休憩したついでに、陽気に誘われ滝を巡る散策路を歩いてきた。この散策路が滝の裏側にも通じている。こういった滝を「裏見の滝」と呼ぶらしい。写し方が下手なためにわからないが、本当は2段式の滝で、写真の滝(落差10㍍)の上にもう一つ滝(同20㍍)がある。

 慈恩の滝は、万年山(はねやま、1,140㍍)を水源とする山浦川にあり、古い資料には「慈恩寺瀑」または「寺下の瀑」とも書かれている。滝の上には杉河内集落があるが、ここにかつて慈恩寺という寺があったと思われ、これが滝の名前の由来となったようだ。『玖珠郡史』(1965)には「江戸時代に滝の近くに一宇の禅寺があり、その寺号が慈恩寺と言っていたので、慈恩の滝と言われるようになった」とあったが、これ以外に慈恩寺について書かれた資料を見つけることはできなかった。詳細は不明だ。

 滝があるのは、久留米市と大分市とを結ぶ国道210号線沿い。くじゅう方面に遊びに行き、のんびり帰る時など頻繁にこの道を通っているのだが、今までは素通りするばかりだった。しかし、昨年7月、滝のすぐそばに道の駅「慈恩の滝くす」がオープンし、せっかくだからと立ち寄る気になった。道の駅は広さ4,500平方㍍で、駐車場は39台分。比較的小規模な道の駅で、物販施設も非常に小ぢんまりとしていたが、4日は好天に恵まれたこともあり、駐車場は満車状態だった。観光面の効果は決して小さくはないのだろう。

 この玖珠町、くじゅう連山を抱えるお隣の九重町に比べ、このブログで取り上げることは少なかったが、万年山やその名も伐株山(685㍍)といった頂上が真っ平らな山があったり、慈恩の滝以外にも数々の名瀑があったりと自然景観に恵まれた土地だ。SL9600形29612号機安住の地となった
豊後の森機関庫もこの町にある。
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東光院の仏像を見てきた

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 福岡県小郡市の九州歴史資料館で4月11日まで、企画展「堅粕薬師と東光院の古仏たち」が開かれ、福岡市の東光院(廃寺)に伝えられてきた仏像30体が展示されている。うち25体までが国の重要文化財。仏像の良しあしを見極めるだけの目も知識もないが、フロアに置かれた高さ2㍍に迫る薬師如来立像、これを守るかのように配置された2体の2㍍超の金剛力士像は圧巻で、ガラスケースに収められた薬師如来坐像、二組の十二神将像も見ごたえがあった。写真撮影不可なのが非常に残念だった。

 東光院は、1981年まで博多区吉塚3にあった真言宗の寺で、806年(大同元年)、最澄によって開かれたとされる(最澄創建ならば、天台宗のはずだが、禅宗を経て、江戸時代に真言宗に改宗した)。福岡市内では、同年に空海によって創建されたと伝えられる東長寺(博多区御供所町)と並ぶ古刹だったことになる。廃寺になったとはいえ、福岡市によって史跡公園として管理されている境内には今なお伽藍が残り、往時の姿をとどめている(写真)。30体の仏像も、最後の住職から委ねられた同市が所蔵している。本来ならば、福岡市美術館に展示されているのだが、同美術館が改装工事で来春まで休館中のため、九州歴史資料館に預けられ、今回の企画展につながった。

 この東光院になぜ、30体もの見事な仏像が伝わってきたのか。写真でわかるように、東長寺、承天寺、聖福寺などの博多の古刹群に比べれば、必ずしも大きな寺ではなく、1932年に出版された『国宝巡礼記』(小野賢一郎)には「こんな場末の淋しいお寺としては国宝の数は随分多い方である」「よくも斯様な立派な像がこんな貧しさうなお寺に今迄遺存されたものだと感心させられる」と失礼極まる感想さえ記されている。(戦前の国宝は現在の重文に当たる)

 東光院で古くから信仰を集めていたのは、冒頭に書いた高さ2㍍弱の薬師如来立像で、これこそが企画展のタイトルにある堅粕薬師。平安時代の作とされる。これを守護する十二神将像など、もともと十数体の仏像が伝わっていたのだが、明治維新後の廃仏毀釈の時代、住吉神社(博多区住吉3)の神宮寺だった円福寺が廃されることになり、ここにあった薬師如来坐像と、もう一組の十二神将像が東光院に移された。これが30体の仏像の理由だ。

 しかし、維新後、黒田家の庇護を失った東光院にとって30体もの仏像を維持することは徐々に重荷となったらしく、先の『国宝巡礼記』にあった「こんな貧しさうなお寺に」という一文は、当時の東光院の経済状況を言い当てたものでもあったのだろう。1981年、最後の住職は寺と仏像を福岡市に寄贈し、宗教法人を解散したが、この決断なくしては仏像群は四散し、一堂に展示される機会などなかったかもしれない。

 『国宝巡礼記』と著者の小野賢一郎についても付記しておくと、香淳皇后の弟、東伏見邦英伯爵が1931年(昭和6)12月から翌年1月にかけて福岡県内の文化財を巡り、この時の模様を案内役の小野がまとめたのが『国宝巡礼記』。小野は東京日日新聞の社会部長を長く務め、また、俳人でもあった。俳号は小野蕪子(ぶし)。東光院についての一文はずいぶんと上から目線だが、実は福岡県は芦屋町の生まれ。これが案内役を仰せつかった理由だった。
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