博多湾のノリ養殖と猪野銅山

19750304国土地理院

 国土地理院が1975年(昭和50)に撮影した博多湾の航空写真に、有明海みたいな風景が写っていた。シーサイドももち埋め立てで消滅した百道海水浴場のすぐ沖に、ノリ網が多数設置されているのだ。こんな市街地に近い海域で、昭和後期まではノリ養殖が行われていたのかと少し驚いた。博多湾のノリ養殖は現在、姪浜で続いているだけだが、かつては湾内で広く行われ、「博多湾ノリ」のブランドで各地に出荷されていたという。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

 福岡市漁協発行の『福岡市漁村史』(1998)によると、博多湾のノリ養殖は1894年(明治27)、箱崎の山崎親次郎という人物が多々良川河口の湾奥部で取り組んだのが始まり。湾内の漁業は冬季にほとんど水揚げがなかったため、漁業者の冬季の副業にしたいとの考えだった。その後、県水産試験場の指導もあって技術が向上すると、1902年頃には多い時で1日1万枚の生産量があったという。しかし、養殖開始翌年の1895年、多々良川上流の猪野(久山町)に銅山が開発され、その鉱毒が湾内に影響を及ぼし始めると、生産量は著しく減少。さらに1911年には、現在の東区名島にあったノリの加工場が火災で焼失し、博多湾のノリ養殖の歴史はいったんは途絶えた。

 再開のきっかけは、第一次大戦後の不況で猪野銅山が1919年(大正8)に閉山し、湾の水質浄化が進んだことで、戦後になると、博多湾のノリ養殖は東は多々良川河口から西は室見川まで拡大した。だが、1981年(昭和56)に始まった博多港の港湾整備により養殖場が次々に消滅していき、ノリ生産量は急速に減少していったという。上の写真が撮影されてから数年後には、博多湾の幾何学模様はほぼ姿を消したことになる。百道海水浴場沖も1982年から埋め立てが始まり、新たな街に姿を変えた。

 博多湾のノリ養殖の歴史を駆け足で記したが、意外に気になったのは、ノリ養殖を一度は中断に追い込んだ猪野銅山についてだ。久山町の歴史には疎いため、存在自体を知らなかった。そこで『久山町誌』(1996)をめくってみたが、それによると、1877年(明治10)頃から町内数か所で銅採掘が始まり、中でも猪野鉱山の中河内鉱は規模が大きく、鉱脈の露出も多い鉱山だった。銅鉱は博多港や現在の東区土井まで馬車で運搬され、その後は船や鉄道で下関・彦島や大分・佐賀関にあった精錬所に運ばれていた。閉山は、猪野鉱山が前記のように1919年、その他の銅山も戦前までには操業を停止したが、これらの廃鉱が水質汚染の原因となり、ようやく1975年になって鉱害防止工事が進められたという。

 町誌にはこのほか、1898年(明治31)頃には銅山の景気が特に良く、給料が高いのを羨んだ小作農たちが次々に銅山で働き始めたため、作付けができなくなり、地主たちが苦慮していたことなどが記されていた。しかし、銅山の経営者、最盛期の生産量や従業員数、鉱害の具体的な内容などついての情報はなく、今一つ銅山の実態をつかめなかった。『福岡県史』など他資料も当たってみたが、福岡県内の鉱業については炭鉱に全てのページが割かれ、銅山についての言及はゼロだった。機会があれば、猪野銅山の廃鉱探索でもしてみたいと思うが、現状はどうなっているのだろうか。
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わがままになって福岡から帰ったパンダ

 上野動物園で誕生したパンダの赤ちゃん、シャンシャン(香香)が大人気だが、福岡市動物園にも以前、中国から貸し出されたパンダの中にシャンシャンがいた。もっとも、こちらはオスで、漢字では珊珊と書いた。福岡に来た時はすでに25歳で、相方だったメスのパオリン(宝玲)も17歳と、結構な高齢カップルだった。パンダ来日はちょうど私が学生時代のことで、せっかくパンダが福岡に来たのだからと、同級生と男ばかり十数人で見に行ったが、可愛いと言うよりも「妙に堂々としているな」というのが正直な感想だった。

 シャンシャン、パオリンは福岡市と中国・広州市との友好都市締結1周年を記念して貸し出され、1980年4月1日から5月31日までの2か月間、特別公開された。期間中、福岡市動物園には現在の年間入園者に匹敵する約87万人が詰めかけるなど大変な人気を呼んだのだが、先日、古い新聞記事で、この2頭についての面白い後日談を読んだ。福岡から広州に帰ってきた2頭はわがままになっていたというのだ。

 新聞記事とは、
「続・樋井川河口にあったものは」で紹介したフクニチ新聞の連載記事『町名物語ルーツわが町』の「南公園、小笹、平尾」編で、これによると、広州市動物園に戻ったシャンシャン、パオリンの2頭は行儀が悪くなり、言うことを聞かなくなっていたという。原因は、福岡で厚遇され、甘やかされていたため。帰国前日の6月1日、広州市の飼育班が檻を用意するなど帰国準備を始めると、これに気付いたパオリンは食べていた竹を放り出して運動場を狂ったように走り始め、その姿は「帰りたくない」と駄々をこねているようだったとも記されていた。

 非常に面白いエピソードと思ったが、念のために公開当時の新聞記事等も当たってみたところ、シャンシャン、パオリンは福岡滞在中、決して甘やかされていなかったという記事も見つかった。前述のように、広州市動物園の飼育班が2頭と一緒に来日しており、彼らは午前9時を過ぎると、2頭のお尻を青竹でたたいて運動場に追い出し、汚れるとせっけん水をかけてブラシでごしごし洗っていた。貴重な動物だから、ガラス細工を扱うように飼育していると思っていた福岡市動物園の関係者は、あまりの手荒さに度肝を抜かれた程だったという。

 もっとも、この2頭のためにパンダ舎(寝室各20平方㍍と運動場が150平方㍍)を新設したり、広州産によく似た笹を毎日沖縄から空輸したりと、至れり尽くせりの待遇だったのも事実で、広州流のスパルタ飼育は同じながらも、どこかで居心地の良さを感じていたのかもしれない。また、2頭とともに福岡市動物園に派遣されていた飼育員が昨年6月、広州紙の取材を受け福岡での思い出を語っているが、インターネット上にある日本語版の記事には「広州は暑い。パンダは暑がりで、福岡のほうが涼しいから、パンダはそこがとても気に入っていた」とあった。わがままになって帰ったかは別にして、2頭が福岡を気に入ったのは、やはり事実のようだ。

 なお、パンダ貸し出しはもちろん無償というわけではなく、福岡市はお返しとして広州市にジェットコースターを贈ったという。この費用を賄うため、パンダ公開期間中の入園料は100円増しだった。
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米一丸伝説のモデルは…

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 学生時代、下宿近くの福岡市東区箱崎に米一丸というバス停があり、妙な名前だなと思っていた。当時は全く関心がなかったが、バス停近くには一帯の旧地名の元となった「米一丸の供養塔」があり、地蔵堂も建っている。供養塔の傍らには12基の梵字板碑や鳥居さえある。神仏習合を通り越してしまったような場所だが、不思議なことに雑多な雰囲気は感じられない。地蔵堂内も敷地も非常にきれいな状態で、地元の人に大事にされていることが一目見てわかる。

 供養塔は九重の石塔で、高さは4.2㍍。鎌倉時代末期の作とされ、県文化財にも指定されている。米一丸の供養塔と呼ばれるのは、
濡衣塚と同じく、石塔が悲劇的な伝説で彩られているためで、伝説の主人公が福岡に来たばかりに悲惨な最期を迎えた、というところも濡衣塚と共通している。地元にとってはあまり喜ばしくない話を語り伝え、それにまつわる石塔や石碑も守り続けている。福岡人のよくわからないところだ。

 この伝説を詳しく紹介している『伝説の九州』(竹田秋楼、1913)によると、米一丸は、駿河の木島長者こと、三河朝臣元直の長男。跡取り息子を待ち望んでいた元直が米山薬師に祈って一子を得たため、米一丸と名付けたという。米一丸は美しい若者に成長し、八千代姫という絶世の美女を妻に迎えるが、主君に当たる京都の一条殿にあいさつに出向いたところ、この男が八千代姫に横恋慕。姫を奪うために口実を作って米一丸を博多に送り、ここで地元の武士たちに襲撃させ自刃に追い込んだ。米一丸の後を追ってきた八千代姫も彼の死を知り自害した、というのがあらすじだ。

 現地説明板には、米一丸の悲劇は文治年間(1185~89)の出来事だと記されており、鎌倉幕府成立直後頃の物語だということになる。『伝説の九州』には後日談も記されているが、米一丸の死後、博多には疫病が流行し、米一丸のたたりと恐れた地元民は、博多中を探して彼の遺品を集め、盛大に供養したという。

 藩政時代の儒学者、貝原益軒も著書『筑前国続風土記』の中で米一丸伝説を取り上げているが、「乱雑にしてまことしからぬ事多ければ、信じがたしといへども、今の市井の人の口碑に残り、瞽女数段のうたひ物とし…」と評している。どこが「乱雑にしてまことしからぬ」のか、益軒は具体的には記していないが、郷土史家の中にも「新しい時代の名前や古い時代の名前が交錯して出てくる」などと指摘する人がおり、時代考証を無視したような部分が多々あるのかもしれない。現在残る石塔は、前述のように鎌倉時代末期の作。南北朝時代に建立されたのに、600年も時代を遡って奈良時代の話に結びつけられた濡衣塚とは違い、伝説と石塔との関係はまだしも時代的には整合してはいるが。

 この伝説は完全な作り話だろうとは思うが、仮に史実がベースになっていた場合、モデルは誰だろうかと考えてみた。以下は私の完全なる想像だが、着目したのは米一丸ではなく、悪役の一条殿だ。モデルにふさわしい人物を探してみたところ、意外にぴったりな戦国大名が見つかった。毛利輝元(1553~1625)。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった長州藩の藩祖だ。彼は1589年(天正17)、家臣の妻を略奪したうえ、家臣を殺害したとの話が伝わる。近隣藩の出来事であることを慮り、鎌倉時代の話に変えられ、物語が広まったというのはあり得る話ではないかと思う。

 ただ、米一丸伝説が本当に毛利輝元をモデルにしていた場合、物語の成立は恐らくは江戸時代初め頃、供養塔と結び付けられたのは、さらにそれ以降の時代ということになる。1709年完成の『続風土記』に「今の市井の人の口碑に残り」と書かれていることを考えると、実話をモデルにした物語がわずか100年程度で伝説化していったことになり、少し無理があるかもしれない。
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変化を続ける箱崎の風景

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 先日、福岡市東区箱崎の県立図書館で調べ物をしたついでに、界隈を散策してきた。過去に解体を取り上げたことがある九大の旧法文学部本館や筥崎宮の大鳥居はきれいさっぱり取り壊されていた。どちらも老朽化が進み、特に旧法文学部本館に関しては「寿命に達している」とまで診断されていた建物だから、解体は仕方がない。仕方はないが、そこにあるべきものがない風景には、やはり違和感を覚えた。(写真1枚目が旧法文学部跡地、2枚目が大鳥居が消えた筥崎宮参道)

 九大の箱崎キャンパスから伊都キャンパス(西区)への移転は、当初のスケジュールを1年前倒しして今年度中に完了予定。箱崎キャンパスでは現在、校舎解体が急ピッチで進み、立ち入り禁止区域が広がっていた。学生の姿が消えたキャンパス内で、代わって見かけたのは解体前の校舎を写真に収める人たちだ。中高年世代が多かったが、残された校舎を様々な角度から熱心に撮影する若い男性もいた。ノスタルジーと言うよりは、無為に消え去って行く近代建築を惜しんでの行動のように思えた。

 箱崎地区では1992年度から2015年度にかけて、JR鹿児島線の立体交差化に併せて大掛かりな区画整理事業が行われた。もともとJR、福岡市営地下鉄の駅を複数抱え、通勤・通学等には非常に便利な地。九大の移転で揺らいでいた学生の街は、区画整理事業によって一気にファミリー世帯向けの街へと転換し、鹿児島線沿線などには現在、大規模なマンションが林立している。今でさえ、学生街が健在だった頃の面影をたどることは困難だが、42.6㌶に及ぶ箱崎キャンパスの跡地利用が本格化していけば、箱崎の風景はさらに大きく変貌していくことだろう。

 ところで、九大の移転構想は、伊都キャンパス以前にも持ち上がったことがある。博多湾東部を埋め立てて建設された人工島・アイランドシティへの移転も検討されたらしいが、記録に残るものとしては1982年に当時の九大学長が発表した春日原移転構想が有名だ。具体的に移転候補地と目されていたのは、1972年に米軍から返還された春日原米軍宿舎跡地(計約156㌶、大半は春日市)。4月に書いた「県庁は春日原になる可能性があった」で、この土地が県庁移転の有力候補地だったことを紹介したが、実は九大移転の候補地でもあったのだ。JR鹿児島線、西鉄大牟田線沿いの広大な土地は、それほど魅力的だったのだろう。

 全面移転が実現しなかったのは、『春日市史』によると、地元側が九大を嫌ったためだとされている。理由の一つは、九大側が米軍宿舎跡地のほぼ全域を移転用地として望み、公園整備等を検討していた春日市側が難色を示したこと。さらに、激しい学生運動の記憶がまだ強烈だった時代でもあり、「学生運動の拠点ともなりかねない」というのも大きな反対理由だったという。確かに、墜落したファントムが建設途中の校舎にいつまでもぶら下がっていたり、過激派学生と警官隊との激しい衝突の舞台となった教養部は廃虚と化していたりで、学生運動最盛期の九大のイメージは決して健全なものではなかった。春日市の忌避は、理解できない話ではない。
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続・樋井川河口にあったものは

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 先日書いた「樋井川河口にあったものは」には複数のコメントをいただき、貴重な情報も寄せていただいた。こんな個人ブログの記事に興味を持ってもらえたのかと思うと、非常な励みになった。仕切り直しで、再度古い住宅地図や資料などを当たっていたところ、福岡市総合図書館でたまたま手に取った古い新聞記事の切り抜きに、樋井川河口にあった謎の一角の正体が書かれていた。ツイッターやブログのコメントで複数の方から指摘があった通り、漁船の船溜まりだった。博多湾がまだ好漁場であった頃の名残りだったのだ。

 新聞の切り抜きとは、今はなき地元紙フクニチ新聞(1992年廃刊)の連載記事『町名物語ルーツわが町』地行1~4丁目編。1984年(昭和59)8月20日掲載記事に「樋井川河口に近い場所に以前船溜りがあった。この地区には古くから漁業を営む住民がいたので漁船の停泊のために建設されたものである」とあり、カット写真として掲載されていた往時の船溜まりには数隻の漁船が写っていた。ただ、漁船とは言ってもボートにしか見えない小さな船で、漁の場所は恐らく博多湾内に限られていたことだろう。

 記事にはまた、「船溜りは潮が引くと子供たちの遊び場にもなったし、川口から迷い込んできた魚が逃げ場を失っているのを付近の主婦たちがバケツを持って取りに集まる」というエピソードも紹介されていた。「樋井川河口にあったものは」で書いたが、河口東岸の地行側は明治末から昭和初期にかけて福博電車によって埋め立てられ、海水浴場や納涼場が設けられた。これは私の想像だが、海岸が海水浴場となったために漁船の置き場所がなくなり、代わりに船溜まりが整備されたのではないだろうか。

 記事の筆者はフクニチ新聞の元編集局長で、退職後は郷土史家として活躍されていた柳猛直氏(1917~97)。『町名物語ルーツわが町』は1,000回を超える大連載だった。

 蛇足だが、1938年(昭和13)版の『福岡市縦横詳細地図』という住宅地図で、樋井川河口付近のページをめくったところ、この地図には、船溜まりとは明記されてはいなかったものの、長方形の一角はきちんと描かれていた。興味深かったのは、西岸の西新側の住宅3棟に、ラルトステュルプナー、エーウリル、ポークランの名が記されていたことだ。言うまでもなく、この3棟こそが
旧制福高の外国人教師宿舎で、跡地には九州大の研究・交流施設「九州大西新プラザ」が整備され、その一角に宿舎3号棟(下の写真)が保存されている。『九州大学西新外国人教師宿舎第3号棟修理工事報告書』(2003)によると、先のカタカナ名はクルト・ステュルプナー、ロイド・エリック・キンヴァストン・エーヴリル、アルベール・ヴォークランの3教師で、ステュルプナー氏が昭和13年当時、今なお残る3号棟の主だったようだ。

 古い空撮写真や地図で樋井川河口に妙な長方形の一角を見つけ、複数の方から「船溜まりではないか」と指摘を受けた。自分自身も最初はそう思いながらも、船溜まりにしては小さすぎるなどの理由から、正体探りを始め、結果としてやはり船溜まりだったということで落着した。大山鳴動して何とかをやらかした気もするが、34年前の連載記事のお陰でスッキリすることができた。一番上の写真は、旧樋井川河口付近の現在の姿。


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樋井川河口にあったものは

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 福岡市の古い空撮写真や地図を眺めていて、妙なものがあるのに気付いた。写真は1956年(昭和31)に米軍が撮影したものだが、樋井川河口の地行側に長方形の一角が写っている。妙なものとはこれのことで、樋井川との間に開口部が設けられているところを見ると、最初は船溜まりではないかと思った。ツイッターで写真を取り上げたところ、同様のご意見をいただいたが、写真に見える修猷館高校や西南学院中高、西新小学校のグラウンドと比べると、船溜まりにしては小さすぎる気もする。何よりこの写真を含め、一角に船が確認できる写真が1枚もないのだ。古い住宅地図などいくつかの資料を当たってみたのだが、今のところ、正体をつかめていない。(写真は国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから借用)

 福岡県立図書館がサイトで公開している『近代福岡市街地図』(明治13年~昭和17年の地図が掲載されている)によると、問題の一角は1926年(昭和元年)の地図に初めて現れる。いつまで存続したかを上記の地図・空中写真閲覧サービスで確かめると、1956年の写真にははっきり写っているが、61年(昭和36)の写真では完全に埋め立てられ、住宅らしきものが建ち始めていた。

 住宅地図を見れば、簡単に正体が判明するだろうと思い、同図書館が所蔵している住宅地図の中でも古い2冊、1932年の『福岡商工案内地図』と55年の『福岡地典』を閲覧してきたのだが、2冊ともに期待を裏切り、肝心の部分の記載がなかった。これは全くの予想外だった。商工案内地図にはそもそも地行地区の海岸部分が掲載されておらず、福岡地典ではどういうわけか、県営アパート3棟(上の写真で一角の南側に写っている建物だと思われる)が海岸に面して描かれ、一角の存在は無視されていた。55年の段階ですでに埋め立てられていたのかと一瞬勘違いしたが、56年の写真にはちゃんと写っているのだから、地図の間違いということになるだろう。

 樋井川河口は明治末から昭和初期にかけて埋め立てられ、西岸の西新側には「西新汐入地」という新たな住宅地が整備され、旧制福岡高の外国人教師宿舎が建てられている。一方、地行側については、『現在の福岡市』(1916)という大正時代の地誌的資料には「樋井川北沿岸は福博電車の埋立地にして夏季の納涼場として、将た海水浴場として其名遠近に高し」とある。福博電車とは、福博電気軌道の名で1910年(明治43)に開業した路面電車で、沿線開発の一環として納涼場、海水浴場を設置したようだ。問題の一角も納涼場、海水浴場の関連施設として整備された可能性はあり、例えば、昔は海水浴場に付き物だった貸しボートの係留施設を想像した。しかし、考えてみれば、貸しボートなどは海岸に引き上げておけば済む話だ。他には思い浮かぶものがない。地道に資料を当たっていくしかないのだろう。

 ※下線部分を訂正しました。
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百道浜の長生き?野良猫

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 「モンバン君」と勝手に呼んでいる野良猫が、福岡市早良区の百道浜界隈にいる。6~7年前だったか、最初にこの猫の存在に気付いた時、いつも福岡市博物館の裏門横にいたことから、門番呼ばわりするようになった。猫の個体識別が得意なわけではないが、この猫は額の模様が特徴的で、横分けした前髪を垂らしているようにも見える。つい先日も博物館前庭を元気に歩いているのを見かけた。つまり、この猫は少なくとも6~7年は生きている。

 野良猫の平均寿命については、ネット上には2~3歳、あるいは4~5歳といった情報が散見される。どの程度信頼できるのかはわからないが、博物館や福岡タワー前などで見かけた猫たちが、翌年には姿を消していることがよくある。「平均寿命2~3歳」というのは感覚的に納得できる数字だ。百道浜界隈では夕方、猫に餌を与えている人たちがいるので、一定の食事は確保できていると思うが、それでも野外生活はやはり過酷なのだろう。だとしたら、モンバン君は野良猫としてはずいぶん長生きしていることになる。

 昨年暮れに見かけた際は、博物館前の路上でうずくまるようにしていた。「老いたのだろうか」と思っていたが、冒頭書いたように、この春は元気な様子だった。上の写真で真ん中に写っているのが問題のモンバン君で、2015年5月に撮影した。ネット上にある百道浜の野良猫の画像を探してみると、他の方が撮影した動画や写真でもこの猫の姿を確認できる。百道浜にいる野良猫はおおむね警戒心が強く、この猫にしても決して人懐こいわけではないが、少なくとも人慣れはしているようで、こうやって写真に収めることはできる。野外で生き延びていくうえで、この性格は少しはプラスになっているのだろうか。

 なお、モンバン君と呼んではいるが、実は大きなお腹を抱えた姿を見たことがあり、本当は雌ではないかと思われる。タイトルを「長生き?野良猫」にしたものの、日本ペッドフード協会が昨年暮れに発表した飼い猫の平均寿命は15.33歳。完全室内飼いのケースに限れば、16歳を超える。同じ猫でも、氏育ちが違えば、生きることができる歳月がこれだけ違ってくる。
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雷山山頂のコバノミツバツツジ

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 糸島市の雷山(955㍍)に登ってきた。紅葉の名所として有名な雷山千如寺大悲王院、古代山城跡の雷山神籠石など山中の名所・旧跡には何度か行ったことがあったが、山頂は初めて。雷山がある脊振山系は福岡・佐賀県境に広がる断層山地で、佐賀県側はなだらかだが、福岡県側は急崖だと言われている。つまり福岡県側から登れば、非常にしんどい。知識としては知っていたが、そのしんどさを我が身で経験してきた。

 ルートは、雷山千如寺の下から登山道に入り、清賀の滝、雷神社上宮を経て山頂を目指した。上宮から山頂までは「もう一息」と聞いていたが、実際に登ってみての感想は「上宮からが登山本番」だった。距離的にはわずか524㍍(案内板の表示)だが、この524㍍が急傾斜の連続で、四つんばいで登らざるを得ないような所もあった。登山前、余力があったら隣の井原山(983㍍)に通じる縦走路をたどろうかとも考えていたのだが、現実に山頂にたどり着いてみると、そんなエネルギーはまったく残っていなかった。昼食休憩後には迷うことなく下山を選んだ。

 井原山では、コバノミツバツツジの花がちょうど見頃を迎えている。これが縦走路を歩きたかった理由だが、雷山山頂にも数株が咲いており、これで満足することにした。コバノミツバツツジは名前の通り、葉の小さなミツバツツジで、薄紫色の花を咲かせる。春から初夏にかけて九州の山々を彩る花としては、阿蘇・くじゅう山系や雲仙などのミヤマキリシマが有名だが、脊振山系のコバノミツバツツジも人気の存在だ。

 ところで、車を停めた登山口近くの駐車場で、無料配布されている糸島市発行の登山マップ「糸島の山歩き―井原山・雷山・羽金山編」を手に入れ、有効活用させてもらった。主な登山ルートとともに、山々の特徴や見所、四季の花々などを紹介したA2判の大型マップで、コンパクトなサイズに折りたたまれている。以前、二丈岳に登った際に「二丈岳・女岳・浮嶽・十坊山編」が役立ったので、雷山でも入手できないかと思っていたところ、駐車場の一角に「山ナビBOX」というものがあり、ここに期待通りマップが置かれていた。帰宅後にマップを眺めながら、来年こそはコバノミツバツツジの群落を見るため、楽な佐賀県側から井原山に登ろうかと思いを巡らせている。

 写真は上から、雷山山頂、山頂に咲いていたコバノミツバツツジ、三つの石の祠が並ぶ雷神社上宮。下の写真が登山マップ。


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