新天町の飾り山、今年もサザエさん

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 博多祇園山笠が7月1日開幕するのを前に、福岡市内各所では飾り山の準備が進んでいる。29日、中央区天神の新天町商店街を通ったが、飾り付けはほぼ終わり、関係者が最後の調整中だった。ここの飾り山の題材は、今年も見送りが『サザエさん』で、実に7年連続。商店街関係者に直接聞いたわけではないが、福岡に縁の深い作品であり、TVアニメは国民的番組として幅広い年代に親しまれていることから題材に選んでいるらしい。

 『サザエさん』原作者の長谷川町子さんは戦時中の一時期、現在の早良区西新に疎開し、百道海岸(埋め立てで現在はない)を散歩していてサザエさんら磯野家のアイデアを思い付いたと言われている。これにちなみ、磯野家の“生まれ故郷”に近い西新商店街は「サザエさん商店街通り」を名乗っているが、福岡市民の多くがサザエさんと聞いてイメージする商店街は、ひょっとしたら毎年山笠が登場する新天町の方かもしれない。

 ところで、冒頭に「福岡市内各所では」と書いたが、博多祇園山笠は本来、福岡市内でも那珂川東側の博多部だけの祭りで、西側の福岡部に飾り山が登場したのは新天町が初めてだった。終戦からまだ間もない1949年(昭和24)のことで、最初は祭りを取り仕切る山笠振興会側から「山笠700年の伝統を破る」と猛反対を受けたという。だが、新天町商店街の店主の多くは、もともと博多の商家の生まれで、山笠に親しんで育ってきた人間ばかり。粘り強い交渉の末、最終的には振興会側も折れ、「長い山笠の歴史の上でもエポック」となったという。

 新天町は1954年(昭和29)にも、斬新な飾り山を作り、再度物議をかもしている。見送りの題材に、ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』を選んだのだ。山笠の表題は今も昔も時代物が主流。これまた「伝統に反する」と猛反発を受けたが、ふたを開けてみれば、子供たちに大人気。これ以降、見送りの題材に限れば、特撮やアニメを選ぶ流が多くなり、新天町では恒例の『サザエさん』につながっている。

 今年はこのほか、アンパンマン(渡辺通一丁目)、ゴジラ(キャナルシティ博多)などが子供たちの人気を集めそうで、さらにはローカルのお笑い旅番組を題材にした『ゴリパラ見聞録』(博多駅商店連合会)というのもある。個人的には嫌いな番組ではないが、よくわからない選択だ。(参考文献は『福岡天神 都心界五十年の歩み』1999など)
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学園都市化するシーサイドももち

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 今春、福岡市のシーサイドももち(早良区百道浜、中央区地行浜)に新たな大学が誕生し、さらに来年4月にも別の大学の開学が予定されている。いずれも医療福祉系の大学。同地区にはすでに2013年春、国際医療福祉大の福岡看護学部が開設されており(「百道浜に大学」)、130㌶ほどの埋め立て地に来春、三つの医療福祉系大学が並ぶことになる。

 今年4月に設置されたのは、南区筑紫丘に本拠を置く純真学園大の百道浜キャンパスで、同大は看護学、放射線技術科学、検査科学、医療工学の計4学科を持っている。キャンパスがあるのは、九州医療センター付属看護助産学校跡(住所は中央区地行浜なのだが…)。看護助産学校は、志願者数減少などを理由に今年3月限りで閉校となったが、3階建ての校舎は純真学園大が借り受け、学部生の実習拠点、及び大学院として活用することになった。

 今までと同様、医療センターの敷地内にある校舎で学生が学んでいるわけだから、一帯の風景に特に変化はなく、学校が看護助産学校から純真学園大に切り替わっていることにしばらく気付かなかった。九州医療センターは、看護助産学校の時と同じく、学生の実習に協力していくという。

 一方、来年の開学を予定しているのは、福岡国際医療福祉大(仮称)で、設置者は学校法人高木学園。こちらは早良区百道浜の山王病院隣で、同じく高木学園が運営している専門学校(来年閉校、写真)を衣替えする形で開設される。理学療法、作業療法、視能訓練の3学科で、各40人の募集を予定しているという。

 高木学園は、山王病院や国際医療福祉大と同じ高邦会グループの一員。2006年、高邦会のシーサイドももち進出が決まった際には、市議会の一部野党会派が強硬に反対した経緯があるが、シーサイドももちでの高邦会の存在感は次第に増している。「百道浜に大学」を書いた当時、医学部開設が高邦会・国際医療福祉大グループの悲願だったことから、「医学部の百道浜誘致に名乗りを上げたらどうか」と無責任に提言したが、国際医療福祉大の医学部はその後、千葉県成田市に設置された。

 新設の2大学はいずれも専門学校跡への進出のため、同地区で学ぶ学生数が急増するわけではなく、3大学を合わせた学生数も大学院を含めても最大1,000人程度にしかならない見込みだ。従ってタイトルの「学園都市化」は少し大げさだったと思うが、シーサイドももちにはこのほか、福岡市医師会が運営する看護専門学校と急患診療センターもあり、医療機関と医療福祉系の教育機関が集中する特殊な地域であるのは間違いない。

 蛇足だが、シーサイドももちの埋め立て完成前、地元の某有名高校をここに移転させる構想があった。同窓会等の猛反発もあり、すぐに立ち消えになったが、この構想が実現していれば、シーサイドももちは間違いなく学園都市として発展していただろうと思う。
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円形劇場と嫩葉会

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 福岡県うきは市の「道の駅うきは」敷地内に先頃復元された円形劇場を見学してきた。1925年(大正14)11月、地元(当時は山春村)の農民劇団「嫩葉(わかば)会」のため、村人たちが総出で造り上げた野外劇場。それから約90年がたち、劇場は跡形もなく風化したものと思われていたが、2015年の発掘調査で遺構が確認され、市が復元を進めていた。この劇場について初めて知ったのは2014年8月、遺構が確認される前のことで、この時は行政ではなく地元有志が復元を模索していた段階だった。関係者から立ち話で復元プランを聞き、興味深い取り組みだと思って、「うきはの円形劇場、復元を検討」で取り上げた。遺構が確認された際にも「遺構が残っていた円形劇場」を書いたが、これほどとんとん拍子で復元が進むとは、予想外だった。

 嫩葉会は、山春村の医師だった安元知之(1890~1927)が、地元の若者たちから「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみも持ちたい」と懇願され、1923年(大正12)に結成した劇団。日本初の農民劇団とも言われている。安元宅の二階大広間を改造した舞台で、旗揚げ公演の菊池寛作『屋上の狂人』を上演して以降、農作業の合間を縫って2か月に1度の公演を行っていたという。

 最初、周囲の村人の目は冷たかったと言われるが、徐々に人気が沸騰、安元宅では手狭になったことから、「野天(のてん)公会堂」と呼ばれた円形劇場が整備されることになった。直径10㍍程度の小さな半円形の舞台を取り巻く形で、階段状の観客席が丘の斜面に配された構造。復元された観客席からは筑後平野や背後の山々が見渡せ、ここでの観劇は、さぞかし趣があったことだろう。

 ただし、嫩葉会は実際にはこの円形劇場で公演を行わなかったと伝えられている。もともと病弱だった安元は病に倒れ、1927年1月に37歳の若さで死去。指導者であり、精神的支柱だった安元が倒れた後、会の活動は下火となり、同年8月には解散を選んだ。円形劇場について紹介する、うきは市教委発行のパンフレットには「この劇場が嫩葉会によって使われることはありませんでした」と記されている。

 しかし、劇場完成の翌年に当たる1926年2月、作家の湯浅真生が『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』と題した評論を読売新聞文化面で4回にわたって連載しているが、この中に“野天劇場”での公演についての記載があるのだ。以下に引用する。

 その年の十二月には村人達の希望(室内では少数の者より観ることが出来ない処から)によって、安元氏宅の附近の畑に野天劇場を作って、菊池氏の『父帰る』『袈裟の夫』『恩讐の彼方に』、武者氏の『わしも知らない』『或る日の一休』、額田氏の『真如』、ダンセニーの『光の門』を二日に亘って上演した。この時には既に舞台だの、小屋がけだのは、一切村人達の手によって作られたのである。

 最初は冷たかった村人たちが嫩葉会の熱烈な理解者になってくれたことを紹介した一文で、文中の「その年」とは円形劇場が完成した1925年を指している。文章をそのまま読めば、嫩葉会がその年の12月に円形劇場で公演を行い、2日間で『父帰る』など7作品を上演したことになる。ただ、2日間で7作品では、あまりに多すぎる気がする。湯浅自身は公演終了後に山春村を訪ね、取材したことを明らかにしている。実際に公演を観たわけではないため、あるいは聞き間違いがあるのかもしれないが、こういった証言があることを無視はできないだろうと思う。

 また、円形劇場の完成から安元の死去まで、1年以上の期間があるが、嫩葉会の活動はこの間、完全に停止していたのだろうか。会解散後の1927年12月、湯浅がやはり読売新聞に寄稿した別の評論には「嫩葉会では安元氏の病臥後も青年達自身の手で試演を行ったこともあったのだが、従来の成績と較べて全然失敗に終わったばかりでなく、その後会員達自身が指導者がいない為に演劇に対する興味さえ失っていくような結果となったのであった」と、嫩葉会が安元抜きで公演にチャレンジし、そして失敗に終わったことが書かれている。公演場所がどこかは明記されていないが、嫩葉会のために整備された円形劇場だった可能性は十分あるのではないだろうか。

 嫩葉会関連の出来事を時系列で記すと以下のようになる。
  • 1923年04月 嫩葉会結成
  • 1925年11月 円形劇場完成
  • 1926年02月 湯浅真生『農民劇場の問題―嫩葉会の功績と意義』連載
  • 1927年01月 安元知之死去
  • 1927年08月 嫩葉会解散
 道の駅うきはの敷地内に、復元前から設置されている円形劇場についての説明板には、劇場が「数千人が一堂に会される」規模だったことが記されているが、実際に確認された遺構は、せいぜい200人が座れる程度の小規模なものだった。嫩葉会解散から約90年、会についての記憶も円形劇場も風化していく中で、誤った情報が色々と伝えられてきた可能性があるのではないかと思う。再び円形劇場が姿を現した今、地元では安元知之と嫩葉会について再評価が進んでいる。
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映画『陸軍』に見る大空襲前の福岡

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 戦時中、福岡で撮影された映画『陸軍』を最近見た。1944年12月に公開された作品で、45年6月の福岡大空襲で焼け野原となる以前の街並みが記録されているため、福岡では歴史資料としても評価されてきた。初めて実写フィルムで見た44年当時の福岡市中心部は想像していた以上に近代的だった。

 映画は木下恵介監督作品で、出演者は田中絹代、上原謙、笠智衆ら。タイトルからは戦闘シーンを連想してしまうが、小倉から博多に移り住んできた一家を描いた作品で、物語の最後では、一家の長男が所属する部隊が中国大陸に派遣されることになり、市内を行進しながら出征していく。多数の市民が日の丸を振って歓呼の声を上げる中で、一人母親(田中絹代)だけは時折涙をぬぐいながら長男を追い掛け、最後は両手を合わせて無事を祈る場面が印象的だ。

 このラストシーンが撮影されたのが、福岡市中心部。部隊が行進していく現在の明治通りにはモダンで、意外なほど大きな建物が建ち並び、呉服町交差点を右折した後は路面電車も映っている。私が確認できたのは、母親が見送りに急ぐ場面に映る、現在も残る赤煉瓦の旧日本生命九州支社(現・福岡市文学館、写真)とその隣の水鏡天満宮の社叢、遠目に映る県公会堂貴賓館の尖塔らしきものぐらいだが、千代田生命、三菱銀行などの建物が次々に登場するらしい。まだビデオソフトが普及していなかった時代、福岡市はこの映画のフィルムを購入し、古い街並みの調査に活用していたとも聞く。

 『陸軍』の原作は、朝日新聞に連載されていた火野葦平の小説。彼は若松の出身だが、福岡連隊で兵役を送っており、恐らく実体験も小説に反映されているのだろう。同新聞の縮刷版をめくり、連載を探し始めたのだが、途中で気が変わり、福岡大空襲についての当時の報道を調べてみた。45年6月21日の紙面に「福岡へ六十機」の見出しで以下の記事があった。

 西部軍発表(昭和二十年六月二十日六時)
 一、マリアナ基地の敵B29約六十機は六月十九日二十二時三十分頃より六月二十日午前零時三十分頃までの間、宮崎県東方海面より単機または少数機編隊をもって逐次九州本土に侵入、約二時間に亘り、福岡市に対し主として焼夷弾による攻撃を実施せり
 一、別に同時頃豊後水道より侵入せる敵B29約十機は関門付近に機雷を投下せり
 一、福岡市内各所に火災発生せるも軍官民の敢闘により二時三十分頃までにその大部は概ね鎮火せり

 被害が本当にこの程度で済んでいたら、『陸軍』に登場した街並みはもう少し後の時代まで生き残り、少なくとも映像や写真程度は多数残されていたことだろう。現実には229機ものB29が福岡に襲来し、『福岡市史』によると、926人の死者・行方不明者(資料によって数字が異なる)を出し、当時の市の総面積の3割、被害が大きかった中心市街地では地区によっては9割が焼失している。
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九州電灯鉄道の痕跡

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 先日、福岡市中央区内を散策していた際、鳥飼神社に「九州電燈鐵道株式會社」と刻まれた石柱があることに、うかつにも初めて気付いた。十数年前から頻繁に通っている場所なのだが、例によって自分の観察力のなさに呆れるばかり。それはともかく、九州電灯鉄道とは、西鉄の路面電車(貫線)の前身に当たる福博電車を一時経営していた会社で、もう一本の石柱には大正2年(西暦では1913年)12月吉日に建立したと刻まれている。貫線は1975年に廃止され、九州電灯鉄道の痕跡は市内にはほとんど残っていないと思われるだけに、この石柱は案外貴重なものかもしれない。

 九州電灯鉄道は1896年(明治29)から1922年(大正11)まで、福岡市にあった電力会社兼電鉄会社。運行していた福博電車は現在の東区箱崎から中央区今川橋までを結び、今川橋で北筑軌道(今川橋~加布里)と連絡していた。今川橋の一つ手前の電停が地行西町で、ちょうど鳥飼神社の裏手にあった。石柱は、騒音などで迷惑をかける沿線に対して謝意を表したものだったのだろうか。

 地行西町は現在の中央区地行2、3丁目に当たり、この一帯を九州電灯鉄道は貸し邸宅地として開発していた。大正時代に出版された『現在の福岡市』(1916)には「巍然たる高楼櫛比し、壮麗なる庭園は細波静かなる湾内の雲烟に和して宛然たる一城廓をなす」と漢文調で当時の様子が記録されている。広壮な庭を持った豪邸が建ち並んでいたというわけで、この豪邸の中には、当時の同社役員の一人で、後に「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門(1875~1971)の屋敷もあった。この屋敷跡は後に日本興業銀行の寮となったが、現在は分譲マンションが建っている。

 西の終点の今川橋電停は樋井川に面し、この樋井川河口を同社が埋め立て、海水浴場や納涼場として整備していたことを
「樋井川河口にあったものは」で取り上げたが、同社はこのほかにも伊崎浜(最寄りの電停は黒門)で海水浴場を運営していた。また、西公園電停近くにあった菊人形の展示館・黄花園も同社の施設だったと思われる。

 貸し邸宅に娯楽施設と、沿線開発には相当積極的な会社だったようで、また、他社との合併も精力的に繰り返し、九州電灯鉄道は大正時代には「今や九州第一の大会社となれり」(『株式大鑑』1916)と評されていた。しかし、その大会社も1922年には関西電気との合併で解散し、それから1世紀近くがたった現在、沿線にあった施設は全て跡形もない。伊崎や地行の海水浴場に至っては、大規模な埋め立てにより海岸自体が消滅した。
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