ニイニイゼミを久しぶりに見た

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 福岡市中央区の西公園で、ニイニイゼミが「チィチィ」と鳴いていた。木を見上げて姿を探したが、見つけるまで、しばらく時間がかかった。このセミは羽も体も地味な茶色で、桜の木などにとまっていると見事な保護色になる。それでも虫捕りに熱中していた子供の頃は、簡単に見つけることができたものだが。私が子供だった昭和時代、福岡にごく当たり前にいたのはニイニイゼミとアブラゼミで、今では信じがたいが、クマゼミは稀少な存在だった。しかし、最近では鳴き声を聞くのも姿を見かけるのもクマゼミばかり。ニイニイゼミを見たのは本当に久しぶりだった。

 私が現在住んでいる地域では、朝起きた時にはすでに、クマゼミが「ワシワシ」と騒々しく鳴いている。クマゼミが静かになる午後には、アブラゼミが鳴き始めるが、数は圧倒的に少ない。ニイニイゼミの声を聞くことができるのは、西公園などそれなりの樹林がある場所だけで、市街地で聞くことはほぼない。私の子供時代とはセミの生息状況が大きく変わってしまったわけで、これは西日本の都市部では共通する現象のようだ。大阪府は大阪市内で2011年、セミの抜け殻調査を行ったが、見つかった抜け殻の98%がクマゼミだったという。

 クマゼミが圧倒的優勢になった理由については、<1>都市部の気温が上がるヒートアイランド現象により、南方系のクマゼミにとっては住みよい環境になった<2>孵化したばかりの幼虫でも土を掘り進む力が強いためアリの餌食になりにくい<3>飛翔スピードが速く鳥に捕食されにくいーーなどの説を聞く。様々な説があるということは、決定的な要因は解明されていないわけで、本当のところはまだ謎なのだろう。<2><3>についてはクマゼミがもともと持っていた能力なのだから、急に生息数が増えた理由にはならない気がするが。

 一方、ニイニイゼミが減った理由については、「ちょっと良い樹林が市街化で失われたため」との説を京都市職労などが唱えている。なぜ、セミの話に労働組合がかかわってくるかと言えば、京都では同職労が中心になって5年ごとにセミの抜け殻調査を行っていたためで、この結果に基づき、同職労は早くからニイニイゼミの減少を指摘していた。ただし、2010年の調査結果によると、ニイニイゼミの数はやや回復傾向にあるという。ネット上には、東京など他都市でも同様の傾向だとする報告があるが、少なくとも私の生活圏ではまだ、その気配は見られない気がする。

 小学生の頃、高学年になっても夏休みには虫捕りに明け暮れていたが、虫かごに入っていたのは、いつもニイニイゼミとアブラゼミだけ。冒頭にも書いたが、クマゼミがここに加わるのはまれだった。ツクツクボウシが鳴く頃は、さすがに虫捕りにかまける余裕はなくなり、仕方なく「夏休みの友」を開いていたものだ。手に入れる機会が少ない分、透明な羽を持ったセミの方が何となく貴重に思っていたが、不透明な羽を持つセミの方がむしろ少数派であることを大人になって知った。東日本でメジャーなミンミンゼミは、北九州の皿倉山など山中で鳴き声を聞いたことがあるぐらいで、憧れの存在だった。
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軍用機献納運動と「福岡市号」

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 福岡市博物館で夏恒例の企画展「戦争とわたしたちのくらし」の27回目が開かれている。今年のテーマは戦時期の宣伝戦略で、戦意高揚、戦争遂行のために制作されたポスターなどが展示されているが、目を引いたのは、朝日新聞提唱の「軍用機献納運動」のポスターだ。国民から金を集めて軍用機の製造費用に充てようというもので、ポスターには「千機二千機われらの手で」「更に銃後の赤誠に想ふ」などの言葉が並んでいる。ただ、朝日新聞だけがこの運動を進めていたわけではなく、他の新聞社も運動を礼賛し、協力していた様子で、例えば、1932年(昭和7)2月2日の読売新聞には「全国各地に巻き起る軍用機献納の美挙!」の見出しが踊っていた。

 献納運動には福岡市も1933年、市一丸となって取り組み、7万5000円を集めて九一式戦闘機1機を陸軍に贈っている。この戦闘機は「愛国第九三福岡市号」と命名され、この年の12月2日、箱崎の埋立地で献納命名式が行われている。その模様を『福岡市市制施行五十年史』(福岡市、1939)は一節を割いて次のように記している。

 「佐藤中尉操縦の下に晴の処女飛行を行い、銀翼燦々と碧空に耀き、横転逆転、あらゆる高等飛行の粋を尽し、僚機二台に迎えられて、雄姿颯爽、南大刀洗の彼方に飛び、怒涛の如き市民の歓呼に送られて、雲間遠く晴の機影を没し去ったが、時に正午を過ぐるまさに五分、この歴史的なる盛式こそ、福岡市民愛国表徴の第一塔として、感激と興奮、唯明日の健闘と雄飛、勝利と成功、幸と栄光とを祈るの外になにものもなかったことはいう迄もない」。

 戦時期の資料であることを割り引いても、ずいぶん美辞麗句がゴテゴテ並んだ文章だが、これが戦後に刊行された『福岡市史』昭和前編(1965)になると、一転して軍用機献納運動についての記載は一切なく、1933年の年表に「四月 福岡号命名式挙行」とあるだけだ。しかも『市制施行五十年史』とは開催日も異なる。献納運動の評価は敗戦と同時に「美挙」から「愚挙」に180度変わり、市史に記録すべき話ではなくなったのだろう。博物館を出た後、隣の市総合図書館に行って、関連資料を探したのだが、献納運動について書かれたもの自体がほとんど見当たらなかった。

 九一式戦闘機は、機体の上に主翼が配されたセスナ機みたいなフォルムの戦闘機で、愛国機にはこの機種が多かったという。名機との評価もあったというが、国立公文書館アジア歴史資料センターにデジタル保存されている文書によると、福岡市の献納からわずか2年後の1935年頃には、九一式戦闘機は主力戦闘機の座から降り、次々に「廃兵器」として処分されていったようだ。実戦での出番はほとんどなかったらしい。「福岡市号」の消息はたどれなかったが、恐らくこの機も戦闘に参加することなくお役御免になったのではないだろうか。
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不法係留船が河口を埋める名柄川

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 福岡市西区を流れる名柄(ながら)川で、福岡県が昨年から、不法係留されているプレジャーボートの強制撤去を進めている。河口両岸には数年前まで、300隻近いボートが並び、ある意味壮観だった。あまりに堂々と係留されているものだから、まさか不法状態とは思わなかったぐらいだ。先日、たまたま近隣を通ったので、現状を見てきたが、依然として多数のボートが河口を埋めていた。カウントはしなかったが、100隻ぐらいはあっただろうか。以前より減っているのは確かだが、一掃には程遠く、沈みかかった廃船さえ放置されていた。撤去が行われているとは、到底思えない状況だ。

 これらのプレジャーボートは、護岸上にあるガードレールに係留され、護岸にはさらに、ボートに乗り降りするため金属製のはしごも吊されている。近隣住民は、車でやって来るボート所有者の不法駐車や、エンジン音に長年悩まされてきた。不法係留が増えてきたのはバブル景気の時代からというから、30年越しの懸案ということになる。

 不法係留のボートは、近隣の生活環境を悪化させるだけでなく、洪水が起きれば、水の流れを阻害し、被害を大きくする恐れさえ指摘されていた。それでも県は事実上、野放しにしてきた。「強硬手段に訴えても、いたちごっこになるだけ」という悲観論があったためだと聞く。正規の係留施設の利用料は結構高額で、近隣にある民間マリーナの使用料は、比較的安い陸置きの場合でも年間234,000~875,000円にもなる。不法係留は、この出費を嫌ったためだから、強制撤去しても他の川に移るだけ、という理屈で30年間手をこまぬいてきたのだ。

 なお、県が2011年に行った調査では、同年1月現在の名柄川河口の不法係留船が284隻だったのに対し、市内にある6収容施設の余力は600隻近かったというから、施設不足が不法係留の主たる要因ではないようだ。

 県はなぜ、ここに至って強制撤去に乗り出したのか。これは県の主体的な判断では全くなく、ただ単に国が全国の不法係留船を2022年度までに一掃する計画を打ち出したためだ。2011年の東日本大震災で、津波で流された不法係留船が二次被害をもたらしたことが国の決断の理由で、これを受け、県も重い腰を上げざるを得なかったわけだ。最初に不法係留の撤去に取り組んだのは東区の多々良川河口で、続いて名柄川では2017~19年度の3年間で一掃する方針だという。すでに10隻程度を強制撤去したらしいが、それでも多数のボートが居座る現状を見ると、難航必至と思える。所有者側には「何を今さら」という反発もあるだろう。

 多々良川では、県が恐れていた「いたちごっこ」は起きなかったようだが、名柄川の場合、具体名は伏せるが、数は少ないながらも不法係留が現存する川が比較的近隣にあり、注意が必要だろうと思う。ただ、県内のプレジャーボートの数自体は右肩下がりで減り続けており、日本小型船舶検査機構が公表している船舶統計によると、2011年度末には6,723隻が登録されていたが、17年度末には5,091隻にまで激減している。前述のように、正規の係留施設を利用する場合は相当な出費が必要になる。撤去を機会に、ボートを手放した人も少なくないのだろうか。
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唐人町商店街に昔、飾り山があった

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 書くネタが何もないので、3回連続で博多祇園山笠の飾り山についての話を。最近、山笠関連の資料を読んでいて、福岡市中央区の唐人町商店街に1965年(昭和40)まで飾り山があったことを初めて知った。同区地行浜の福岡ドーム(現・ヤフオクドーム)に2000年、初めて飾り山が建てられるまでは、山笠の歴史上で最も西にあった飾り山だったという。福岡部の数少ない飾り山の一つとして親しまれてきたが、66年、商店街のアーケード工事のため建設を見合わせ、結局復活を果たせなかった。

 唐人町に初めて飾り山が建てられたのは1950年のことで、途中休止の年(1961年)を挟みながらも、16年間山笠に参加していたことになる。1950年代初めは戦後復興が進み、山笠の経済的基盤となっていた市内各地の商店街も繁栄、続々と山笠に参入していた時代で、『博多山笠振興会五十年史』(2004)に、1952年には「この年の舁き山笠は14本、飾り山笠は13本という空前の規模となった」と書かれていた。この頃、唐人町商店街は飾り山だけでなく、子供山笠も運営していたという。

 唐人町の飾り山が廃止された理由については、『五十年史』には「祭り一般について言えることだが、経費がかかるため、いったん中断すると復活が難しいという問題を浮き彫りにした」とあり、やはり資金問題が復活のネックとなったようだ。高さ10㍍を超える豪華な飾り山建設には多額の経費がかかると言われ、1990年代初めの話だが、建設費は1000万円前後と漏れ聞いたことがある。アーケード建設という大事業を終えた後でもあり、毎年多額の経費を負担するのが困難になったのだろう。ただし、山笠振興会の役員名簿には、1970年頃までは唐人町関係者の名前があり、飾り山建設を休止して以降も数年間は、復活を模索していたことがうかがえる。

 1965年、唐人町に最後に建てられた飾り山の標題は、表が「柳生武芸帳一殺一生」、見送りが「琴姫七変化」。『柳生武芸帳』は五味康祐の小説で、1960年代はこの作品が原作の映画やテレビドラマが人気を博していたようだ。「琴姫七変化」も当時の人気テレビドラマで、主演は松山容子。ボンカレーのCMで有名だった、あの女優さんだ。写真は現在の唐人町商店街。小さな商店街だが、地元では根強い人気があり、黒田藩御用達の老舗も今なお健在だ。一部建物の建て替えが予定されており、複数の店舗が現在、閉店セールを行っている。
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ヤフオクドームの飾り山小史

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 博多祇園山笠が開幕し、中央区のヤフオクドーム前にも恒例の飾り山が登場している。ただ、残念なことに、今年はソフトバンクホークス戦の観戦客が飾り山を目にする機会は少ない。山笠期間中、ヤフオクドームでの試合は1日に行われたロッテ戦だけだったのだ。しかも、その試合でホークスは良いところなく敗れ、山笠を勢いづけにとはいかなかった。遠征とオールスターゲームを終え、ホークスがヤフオクドームに戻ってくるのは、山笠閉幕後16日の西武戦になる。

 今年の標題は「躍進玄海鷹」で、山笠人形のモデルは、千賀―甲斐の育成出身バッテリーだ。昨年はなぜか「投の若鷹」「打の若鷹」と選手の具体名がぼかされたが、今年は元通り、旬の選手をモデルに人形が作られた。似ているか似ていないかは見る人次第だが、やはり伝統の祭りに自らの人形が登場するというのは、選手にとっても励みになるのではないかと思う。

 ヤフオクドーム前の飾り山が初めて作られたのは、ホークスが福岡で初優勝した翌年の2000年で、この年以来、王、秋山、工藤の歴代監督、その時々の中心選手に加え、球団マスコットのハリーホーク、ソフトバンク携帯のCMで人気のお父さん犬などが球場前を彩ってきた。このブログでは2010年以降、ヤフオクドームの飾り山を紹介しているが、主役に選ばれた選手を振り返ると、10年が川崎、11年が攝津、細川、12年が森福、本多、13年が大隣、内川、14年が松田、長谷川、15年が柳田、16年が武田、今宮。すでにホークスを去った選手も4人いる。

 意外なことだが、飾り山の「表」は、初めの頃は伝統的な時代物で、ホークスは見送り(裏側のこと)だった。2000年の標題は、表が「決戦巌流島」、見送りが「めざせV2」。「めざせ」が平仮名で表記されているところを見ると、この時のホークスの飾り山は、アニメや特撮物などと同様、“子供向け”の扱いだったのだろう。01年もホークスは見送りで、02年に初めて表に昇格するが、この年はホークス選手を戦国武士に見立てた「決戦誉鷹城」という異色作だった。03年は再び見送りに戻り、表が定位置となったのは04年以降のことだ。

 時代物の題材は、球場がやはり戦いの舞台であるためか、歴史上でも有名な戦いが選ばれることが多い。中でも人気なのは、九州最大の合戦と言われる筑後川の戦い(大保原の戦い)だ。05年「勇姿凜々剣洗川」、14年「合戦大保原」、17年「雄姿凜々剣洗川」と、19年間で3度も登場しており、05年と17年はタイトルまでほぼ同一だ。南北朝時代、南朝方の懐良親王、菊池武光、北朝方の少弐頼尚らが両軍合わせて総勢10万の軍勢を率いて激突した戦いで、合戦後、菊池武光が血塗られた刀を川で洗い、これが今に残る大刀洗の地名の由来と言われる。続いて標題として多いのは、壇ノ浦の戦い、桶狭間の戦いの各2回で、ちなみに今年は「攻防千早城」(写真2枚目)だ。

 ヤフオクドーム前のホークスタウンモール跡地では現在、今秋のオープンを目指して新商業施設・マークイズ福岡ももちの建設が進んでいる。来年以降は、ヤフオクドームで試合やコンサートなどのイベントがない時でも、一帯は多くの人でにぎわっていることだろう。逆に言えば、現在は試合などがなければ、人が行き交う場所ではない。冒頭書いた話とだぶるが、福岡を代表する夏祭りの開催中であり、ドーム前にはせっかく豪華な飾り山も建てられているのだから、多くの人の目に触れるよう、試合日程にはもう少し配慮があって良かった気がする。
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