世界的な彫刻家だった「ブルドン」の作者

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 福岡市早良区の市総合図書館前に、黒御影石製の犬の彫刻が置かれている。「ブルドン」というタイトルから判断すれば、ブルドッグがモデルなのだろうが、愛嬌のある顔立ちはパグにも見える。恐らく若手の作品だろうと勝手に想像していたが、訃報で、作者が世界的な彫刻家だったことを知った。今年7月、95歳で亡くなった流政之さん。代表作は、ニューヨークの世界貿易センター前にあった重さ250㌧の巨大石彫「雲の砦」。この作品は米同時テロの際、救助活動の妨げになるとして撤去されたが、流さんの作品は国内外に多数残され、高く評価されているという。

 総合図書館のあるシーサイドももち地区には、このほかにも数々の野外彫刻やモニュメントがあり、野外美術館の趣だ。このブログでも過去に地行浜中央公園にそびえるニキ・ド・サンファルの
「大きな愛の鳥」、市博物館前に並ぶブールデルの大作「雄弁」「力」「勝利」「自由」について取り上げたことがあるが、この機会に、他の作品についても調べてみたところ、「ブルドン」以外にも大物作家の作品が少なくなかった。

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 いくつか紹介すると、樋井川をまたぎ、地行浜と百道浜を結ぶ歩行者専用橋の両岸にある2体は、イギリス人彫刻家バリー・フラナガンの「ミラー・ニジンスキー」(写真は地行浜側の作品)。ロシアの伝説的なバレエダンサーを野ウサギに見立てた躍動感のある作品だ。フラナガンの野ウサギをモチーフにした作品は、国内では非常に人気があるらしく、福岡市内でもほかに、市美術館前に「三日月と鐘の上を跳ぶ野ウサギ」があるほか、宇都宮や箱根など各地の美術館にも彼の作品が置かれている。

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 総合図書館近くにある高さ8㍍のステンレス製モニュメントは、菊竹清文さんの「ウォーターランド」。菊竹さんは久留米市出身で、長野五輪の聖火台をデザインしたことで知られる。建築家の菊竹清訓さんは兄、戦前、軍部と戦った抵抗のジャーナリスト菊竹六鼓は親族に当たる。菊竹さんの作品はこのほか、中央区天神のアクロス福岡前に「スターゲイト」、同・済生会総合病院に「希望の鳥」など、計5作品が福岡の街を彩っている。この記事を書くに当たって参考にした『ふくおかパブリックアートガイド改訂版』によると、福岡市内にある野外彫刻・モニュメントは、菊竹さんの作品が最も多かった。なお、「ウォーターランド」は噴水を兼ねているらしいが、最近では、この作品から水が噴き出ているのは見たことがない気がする。
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終戦直後まであった「田島の女中市」

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 写真は、現在の山口県下関市で昭和時代まで続いていた「滝部の奉公市」を記録したものだ。滝部地区周辺の漁村では、女性たちが農繁期、近隣の農家に働きに出る慣行があり、こういった青空労働市場で雇用関係を結んでいた。賃金は、現金ではなく米などで支払われていたらしい。漁業者側はこれで米を確保できる一方、農家側も忙しい農繁期にだけ人を雇えるメリットがあったという。同様の風習は、玄海灘に浮かぶ福岡県の大島(現・宗像市)にもあり、こちらは「田島の女中市」とも呼ばれていた。ただし、地元では人身売買を連想させるとして女中市の呼び名を嫌っていたようだ。

 田島の女中市については、戦前の1935年(昭和10)に出版された『博多年中行事』(佐々木慈寛)に、以下のように紹介されている。

 女中市 宗像宮の秋祭の時、同社の一の鳥居一帯に妙齢の娘たちが居並んでいるが、これは宗像郡神湊から三里の沖にある大島(宗像宮の中宮を祀る)の娘たちで、島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので、この日宗像宮に詣でて召し抱え主を物色しているのである。祭典の二日目に参籠殿の一隅で雇傭関係が結ばれるが、毎年四、五十組位はあるという。

 宗像宮の秋祭とは、現在も続く宗像大社(宗像市田島)の秋季大祭(10月1~3日)のことで、別名は「田島の放生会」。『博多年中行事』の出版当時、当たり前に市が開かれていたことがわかる記述だが、それどころか戦後の1951年(昭和26)まで、この風習は続いていたらしい。理解できないのは、女性たちが奉公に出る理由について「島の習慣として一度島外へ奉公した者でないと嫁に貰う者がないので」と書かれていることで、本当にこんな理由で女中市は長年続いていたのだろうかと不思議に思った。

 他資料を当たったところ、『大島村史』(1985)に「普通は盛漁期を過ぎた十月から、あり余った漁村の労働力を、農繁期の刈り入れ時に提供し、漁村に不足している米という現品を持ち帰る。経済的に相互利益に立った両者納得のうえの契約である」とあった。やはり滝部の奉公市と同様の図式だったようだ。ただ、一方で村史には「この出稼ぎは島の貧富を問はず、習慣として、どんな豊かな家の娘も、一度は他人の飯を食って修業したのである」ともあり、一種の通過儀礼として機能していたのも事実のようだ。なお、奉公の期間は12月1日までというのが一般的で、雇用期間が1年を超える年季奉公に対し、「半期奉公」と呼ばれていたという。

 女中市は、上述のように1951年を最後に幕を閉じるが、これはニーズがなくなったから廃れたわけではなく、福岡県側があらかじめ求人情報を調べ、これを大島村の若者たちに提示する方式に改めたからだという。半期奉公について、地元・大島村では島の若者たちに他所の生活を体験させ、人間形成につなげる「美風」として続いていたが、女中市とも呼ばれた、その雇用契約のあり方については、県側には改めるべき前近代的な風習と思えたのだろう。

(写真は国会図書館デジタルコレクション所蔵の『職業紹介公報』第54号から借用。女中は現在、差別用語として扱われているが、歴史的用語として使用した) 
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