復旧が進まない日田彦山線

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 先日、福岡県添田町にある道の駅「歓遊舎ひこさん」に向け、JR日田彦山線沿いの道を車で走っていた際、添田駅付近で、国鉄カラーの列車が停まっているのを目撃した。帰路に車窓から写真を撮ってきたが、方向幕には「団体」と表示されており、臨時列車のようだった。帰宅後に調べてみると、昨年7月の九州北部豪雨で被災し、添田~夜明間29㌔が今も不通となっている同線支援のため、小倉~西添田間で企画されたツアー列車で、私が見た時は添田駅で待機中だったようだ。

 昨年10月、「歓遊舎ひこさん」に日田彦山線の駅(駅名も歓遊舎ひこさん)が併設されていることに、うかつにも初めて気付き、
「どうなる日田彦山線」を書いた。この時、添田~夜明間は、復旧の見通しすら立たない状況だった。それから1年がたったが、状況に大きな変化はない。JR九州と福岡県を含めた沿線自治体との復旧会議では、JR九州社長が8月、バス転換の可能性を不用意に口にして猛反発を浴び、これに懲りたのか、今月25日に行われた会議では、JR側も「鉄道での復旧」を目指すことを再確認したという。しかし、これで一件落着したわけではない。

 添田~夜明間は、九州北部豪雨で橋梁損傷やトンネルへの土砂流入など53箇所も被災し、その復旧には70億円の巨費が必要とされている。さらに、被災前の同区間は、赤字額が年間2億6600万円にも上る不採算路線で、25日の会議について報じた西日本新聞朝刊などによると、JR側は復旧の前提条件として、収支改善のための財政支援も沿線自治体に期待しているという。これに対して自治体側は、観光客誘致など、いわゆる「乗客増運動」で支援する考えで、財政支援には否定的。両者の主張が平行線とあって、復旧工事着手は依然、不透明な状況だという。

 JR九州側は日田彦山線の全線存続を人質に、自治体側に身代金を要求しているようにも見えるが、自治体側が取り組む「乗客増運動」、あるいは「乗車運動」が不採算路線で果たしてどの程度効果があるのか、疑問でもある。先行例を探してみたところ、今年4月に全線廃止となったJR西日本の三江線(広島県三次~島根県江津、108㌔)について、存続運動に取り組んだ研究者の論考がネット上にあったが、非常に示唆的な内容だった。
(『廃止対象JRローカル線の存続問題ー三江線廃止問題から産業遺産、観光資源としての地域鉄道化を考察する。』風呂本武典・広島商船高等専門学校准教授)

 結論から先に記せば、三江線存廃を巡る自治体の対応について、風呂本准教授は次のように痛烈に批判している。
 「三江線の存続危機は周知されてきたにも関わらず、実情として沿線自治体は本腰を入れて存続するために身銭を切る努力を回避してきたと言わざるを得ない。(中略)そこでなお存続を目指すのであれば抜本的な支援策なりが必要であろうが、一方でそれはJRに対してただ単純に存続を要請する旧態依然の活動の範疇を出ていなかった。結局は陳情を繰り返し、乗って残そう運動が形を変えて掛け声だけが響く80年代の赤字ローカル線問題の再現であった」。

 存続のためには、やはり「身銭を切る努力」が必要というわけで、准教授はまた、「それでも地域が必要とするならば相応の負担が必要であり、そのための地域住民の合意形成や県や国への高度な根回しや支援策獲得への具体的行動が伴わなければならない」とも強調している。これを読む限りでは、JR九州の身代金要求にはそれなりに筋が通っていることになる。

 もっとも、廃止前の三江線の輸送密度(平均通過人員=1㌔当たりの1日平均利用者)は50という壊滅的な数字で、これは日田彦山線の不通区間を含む田川後藤寺~夜明間の299(2016年度、日田彦山線全線では1,302)と比べても極端に少ない。この数字が100万を超える東京・山手線などと比べれば、誤差に等しい違いだろうが、日田彦山線にはまだしも「乗客増運動」の余地があり、冒頭紹介したツアー列車運行などのような観光客誘致策はまったくの無意味ではないのかもしれない。

 歓遊舎ひこさんでは、1年前と同じく駅ホームを撮影してきた。列車が走っているのは、この駅の一つ手前の添田駅までで、添田~歓遊舎ひこさん間の距離はわずか1㌔あまりに過ぎないが、この区間でも土砂崩れが起き、この1㌔を列車は1年以上も越えることができない。もともと無人駅ながら、ホームは清掃が行き届き、荒れた雰囲気はまったくなかったが、線路の赤さびは1年前よりも色濃くなったようにも見えた。 
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戦時下のミッションスクール撲滅運動

 戦時下の福岡県で、不愉快極まりない運動が行われていたことが、県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)に記されている。戦前、戦中の「キリスト教系学校への弾圧」について紹介した一文で、「キリスト教国である米英等と深い関係があり、平和と人類愛を目標とするキリスト教系の学校に対しては特に非難、圧迫が次第に強く加えられるようになった。(中略)ある種の学校については、事実上学校経営が不可能になるような条件の実行を強要し、あるいは廃校に追いこもうとさえした」などと書かれている。この一文はごく簡潔にまとめられ、どの学校にどのような弾圧が加えられたのか、具体的事実は全く記されていないのだが、当時の新聞の切り抜きがカット写真として掲載され、その写真説明が本文よりはるかに生々しく弾圧の実態を物語っている。「戦時中、西南女学院撲滅運動に関する新聞記事」。

 撲滅とは手元にある国語辞典によると「うち滅ぼすこと、絶やすこと」で、普通は社会の害悪に対して使われる。そんな激しい言葉が、一女子校に向けられていたのだ。

 西南女学院は北九州市小倉北区にあるミッションスクールで、1922年(大正11)、伝道のため来日していたアメリカ南部バプテスト派の宣教師によって創設された。同僚宣教師によって設立されたのが福岡市の西南学院で、両学院は経営的には無関係だが、西南女学院の第7代院長だったW.M.ギャロット(1910~74)が、後に西南学院の理事長を務めるなど人的なつながりは深い。新聞切り抜きの写真は、見出しは読み取れるものの、記事本文は全く判読できず、撲滅運動の正体まではわからない。そこで『西南女学院七十年史』(1994)をめくったところ、まるまる一章を割いて戦時下の苦難がつづられていた。

 『七十年史』にはさすがに「撲滅運動」ではなく、排撃運動、排斥運動と記されていたが、いずれにしろ西南女学院がターゲットとされたのは、キリスト教系の学校だったからというだけではない。同学院の立地も問題にされていた。「下関・北九州は人々の交流、物資輸送の要地であり、大陸進出の拠点であり、製鉄業を中心とした四大工業地帯の一つであったから、国家防衛上の要塞地になっていた。それを眼下に見るシオンの山にアメリカの教会と関係の深い西南女学院が建っていることから、特に攻撃や排斥を受けやすい状態であった」(『七十年史』)のだ。

 「シオンの山」とは、学院がある小倉・到津の丘陵を生徒・教職員はこう呼んでいた。軍事上の要地、下関要塞地帯を見下ろす場所に、キリスト教系の学校があるのはけしからんというのが攻撃の大きな理由だったのだ。

 運動を主導したのは「愛国同志会」なる右翼団体。同団体は太平洋戦争開戦直前の1940年8月、同学院に押し掛けると、<1>学校を平坦地に移せ<2>人的にも物的にも米国との関係を絶て<3>キリスト教を捨てよ――などと要求し、これを拒否されると、立て看板やポスターを小倉市(当時)の各所に掲示するとともに、複数回の演説会開催、さらには宣伝ビラを新聞折込で市内各戸に配布するなどして市民に対して西南女学院排斥を訴えたという。この愛国同志会の実態はつかめなかったが、これほど大々的な運動を展開できたのだから、資金面でのバックがあったのは間違いない。運動には一部市議も賛同、警察は黙認の状態で、さらには新聞一紙が同志会の動きを大々的に報じたが、論調は「むしろ攻撃する側を正当化する」(『七十年史』)ものだったという。

 女学院側が校舎移転は毅然として拒否しながらも、度重なる交渉の末、外国人理事の除名や米国からの資金援助拒否などを約束したことで、同志会は矛を収めるが、女学院の本当の苦難の始まりはこれからだった。1944年3月、当時の原松太院長、杉本勝次理事長(後の福岡県知事、衆院議員)は軍部、及び県から呼び出され、陸軍の防空基地とするため校舎を明け渡すよう要請を受けた。さらに「貴校に対しては地方的にも排撃があるようだから施設の譲渡と同時に一時閉鎖か、廃校にしては何か」と迫られたのだ。院長、理事長の二人はこの時、「学校を閉鎖するより他に道はないように考えた」という。

 長くなったので結論を急ぐが、この危機的な状況の中で西南女学院が存続できたのは、女学院の教育を守ろうとした学校関係者や父母の熱意はもちろんだが、軍部や県に疎まれた学院に対し、救いの手が差し伸べられたからだ。旧制小倉中、小倉高等女学校が学校施設、そして明恩寺(小倉北区、浄土真宗本願寺派の寺院)が本堂を提供してくれたことで、校舎を失った女学院は分散授業を強いられながらも、廃校を免れることができた。女学院が帰還を果たせたのは、終戦後の1945年9月。このブログを始めて以来、参考資料として学校史を読むことが増えたが、ここまでドラマチックな記述は初めてだった。

 福岡市の西南学院に対する攻撃は、女学院に比べれば穏やかだったらしい。その理由として、女学院への攻撃の裏には男女差別があった可能性があること、西南学院の校地は軍事施設から離れていたこと、そして何よりも「自分たちは健児を送り出して戦時体制に直接的に協力していると主張できたことが大きい」と学院関係者は分析している。
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悲惨というより壮絶だった戦後開拓

 古い新聞の切り抜きに、目を引く記事があった。福岡県内の山間部にある某戦後開拓地の一つを取り上げた1965年1月11日の読売新聞朝刊地方版の記事で、「また一人さびしく下山」「15年、ついに報われず」「春のない辺地」などの見出しの下、過酷な環境で経済的にも厳しい生活を送る入植者を救うため、地元の市役所が下山を勧めていることが書かれていた。記事によると、この開拓地は1951年に開かれ、入植者たちは山を切り開いて畑作農業を営んできた。しかし、車が通行できる道までは6㌔の山道を登り下りする必要があるため、作物の出荷は思うようにいかず、記事の書かれた当時は5戸が開拓地にとどまっていたものの、現金収入はほとんど得られず、自給自足に近い生活を送っていたという。

 興味を覚えて、この開拓地について調べてみた。1965年1月の時点で、行政が住民に離村を勧めていたのだから、恐らく集落は消滅しているだろうと予想したが、住宅地図の該当ページには、他の集落から遠く離れた山間部に、寄り添うように建つ2軒の住宅が記されていた。念のため、市役所に電話で確認すると、やはり2世帯が今も暮らしているとのことだった。自治体名や集落名を伏せたのは、これが理由だが、わずか2世帯とは言え、開拓地が今なお存続していたことは驚きだった。

 この開拓地の苦闘ぶりは、1981年に発行された市史にも紹介されている。開拓地は標高560㍍の「山間僻地」にあり、1951年から翌年にかけて市内外から13戸が入植し、焼き畑農業から出発して開拓が進められた。入植者たちはサトイモ、ソバ、サツマイモ、ダイコン作りに懸命に取り組み、中でもダイコン生産は一時、有望視されていたという。しかし、読売新聞に書かれていたように、交通不便な僻地だったことが仇となって量産体制、出荷体制が整わず、さらに子供の教育の問題や医療施設がないことなどもネックとなり、市史執筆の時点で入植者は3戸に減っていたという。市史のこの項目は「長年の努力で開拓された畑地は、しだいに元のような植林地に変わりつつあるのが現状である」と結ばれていた。

 時系列でまとめると、1951~52年に13戸が入植したが、読売新聞が取り上げた65年には5戸にまで激減し、市も残る住民に離村を勧めていた。しかし、市史発行の81年時点でも3戸がとどまり、入植開始から70年近くがたった今も2戸が暮らしている。市の勧めに応じなかった理由はわからないが、辛苦を刻んだ土地から離れ難かったのだろうか。

 戦後開拓について簡単に振り返っておくと、終戦直後の食糧難の時代、開拓等によって農地を広げて食糧増産を図るとともに、復員軍人や引き揚げ者らに働く場を与えるのが目的だったとされる。終戦の年の1945年11月に閣議決定された緊急開拓事業実施要領には、その方針が次のように記されている。
 「終戦後ノ食糧事情及復員ニ伴フ新農村建設ノ要請ニ即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧自給化ヲ図ルト共ニ離農セル工員、軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」

 戦後開拓によって切り開かれた農業地帯としては、九州では宮崎県川南町の広大な川南原開拓地が代表的な存在で、川南町は有数の酪農・畑作地帯として知られている。しかし、あまりに過酷な環境に入植者が離散し、閉鎖され消滅した開拓地も少なくないとされ、戦後開拓を「一種の棄民政策だ」と批判する意見もある。福岡県の戦後開拓については、概観した資料を見つけることができなかったが、『戦後開拓史(完結編)』(全国開拓農業協同組合連合会、1977)に、お隣の佐賀県の研究者が『戦後開拓行政の一考察』と題した一文を寄せていた。同県では127の開拓地があったが、この当時、9地区がすでに閉鎖され、残った地区の中にも20数戸の入植者が2、3戸にまで減っていたところもあったという。閉鎖地区について、研究者は次のように記している。

 「この閉鎖地区の存在こそが、戦後開拓のすさまじい様相を物語っていると私は思う。入植者は裸一貫で現地にはいり、鍬1本で開墾にいどむことになる。入植者は貧しい食生活に耐え、渾身の力をふりしぼって努力するが、過酷な自然条件は開発を頑として拒絶する。人々は精魂を使い果し、力つきて脱落していく、それが閉鎖地区である。戦後開拓には、こうした閉鎖地区の多いことが一つの特色である」

 『一考察』にはこのほか、入植当時の住宅が「古代人の住み家」同然だったことや、開拓地への電気導入事業が佐賀県で終わったのは1967年で、戦後20年を経てもランプで暮らしていたことなどが書かれている。劣悪な生活環境のため、2人の幼子を相次いで失い、「亡き子らに詫びる」と題した手記を寄せた男性もいたという。これらの体験談に触れた執筆者は、「凄惨な思い出」と表現し、「当時の思い出話は悲惨というより、何か壮絶な感じさえしたものである」と記している。
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福岡城多聞櫓、鶴城高女についての追記

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 福岡城内に築城当時から残る多聞櫓(写真)が戦後の一時期、西日本短大の前身に当たる学校に学生寮として使用されていたことを昨年8月、「多聞櫓は学生寮だった」で紹介した。城の建物が学生寮となるなど珍しいと思ったが、いかにも戦後の混乱期らしい話でもあったようだ。

 西日本短大の前身に当たる学校とは、困窮していた戦災者、引き揚げ者らの子弟の教育のため1948年12月に創設された大憲塾。創立者は江口繁。中央大卒業後に福岡市で弁護士を開業、後に政界に転じ、福岡市議、県議、衆院議員を歴任した人物だ。戦後は一時、公職追放を受けていた。多聞櫓の使用については、教育立て直しのため国も快く許可したのだろうと思っていたが、当時、一部から疑問の声が上がっていたという。正当な手続きを踏んでの借用だったのか、要するに無断使用の疑いがあったのだろう。

 疑義に対して江口は「大憲塾があったから、多聞櫓は浮浪者の住まいになることなく、損壊も免れたのだ」などと抗弁していたという。櫓使用についての正当性を主張したわけではなく、的外れの反論を行ったところをみると、疑いは根も葉もないものではなかったのだろう。ただ、大憲塾は1955年3月には県から各種学校の認可を受け、大憲塾法学院に改称しており、遅くともこの時までには問題は完全に解決していたとは思われる。

 なお、『福岡城南丸多聞櫓修理工事報告書』(福岡市教委、1975)に基づき、多聞櫓は学生寮として使用されたと書いてきたが、同じ市教委発行の資料の中には、ただ単に校舎と記したものもある。ただ、同報告書には「西日本短大が事務所および学生寮として使用した際、(中略)室内に押入れの新設、窓や出入口の模様替並に天井、間仕切壁面にベニヤ板を張る等内装を改め」とあり、居室として使用されていたのは間違いないようだ。校舎が寄宿舎も兼ねていたのだろうか。

     ◇

 続いて、2年前の11月に取り上げた鶴城高等女学校について(「鶴城高女を探して」「続・鶴城高女を探して」)。福岡市内に戦中まで存在したものの、戦後になって忽然と消え去った学校だ。福岡市と周辺にあった高等女学校は戦後、鶴城高女以外は全て新制高校として再出発し、今なお健在だ。鶴城高女がいつ、なぜ閉校したかを探ることが2本のブログのテーマだったが、あやふやなままで終わった。その後も折を見て古い新聞記事等を当たっていたところ、同校について簡単に触れたフクニチ新聞(1992年廃刊)記事を探し当てることができた。同紙は戦後の一時期、鶴城高女の跡地に社屋を置いていたというつながりがある。その記事によると、鶴城高女は「終戦の頃に廃校になった」という。

 廃校の理由については書かれていなかったが、これは何となく想像がつく。「鶴城高女を探して」の中でも紹介したが、同校は1945年6月19日の福岡大空襲で、校舎を失っている。福岡県教委発行の『福岡県教育百年史』(1981)によると、福岡大空襲では、鶴城高女のほか、福岡女子専門学校(現・福岡女子大)、福岡第一師範女子部(現・福岡教育大)、福岡高女(現・福岡中央高)などの校舎が焼失したが、私学の鶴城高女には戦後、校舎を再建し、再出発するだけの体力が残されていなかったのだろう。

 鶴城高女の創立年については、2016年のブログで、『教育百年史』には1902年(明治35)、大正時代に出版された『福岡市』(1916)には1912年(明治45)と異なる記述があることを取り上げたが、フクニチ記事はまたも異なり、1911年(明治44)創立と書かれていた。廃校によって記録が散逸し、さらには同校について記憶する人も減っていく中で、創立年という基礎的なデータさえあいまいになってしまったのだろう。『教育百年史』というオフィシャルな出版物が正しいのではないかと最初は考えたが、創立から近い時代に出版された『福岡市』の1912年が、やはり一番信頼に足りるのではないかと思う。
 
 最後に、鶴城の読みについて。「ツルシロ」か「カクジョウ」かわからなかったため、2016年ブログでは触れなかったが、カクジョウが正解だった。
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