明治に廃れた子供の正月行事「千ざいろう」

 博多の行事や風習をまとめた戦前の出版物『博多年中行事』(佐々木慈寛編)に書かれていたのだが、博多の子供たちは昔、「千ざいろう」なる正月行事を楽しんでいたという。破天荒というか、結構乱暴な催しだが、だからこそ子供たちは楽しみにしていたことだろう。子供時代、一度でいいからこんな催しに参加してみたかったと痛切に思った。

 どんな催しかと言えば、『博多年中行事』には次のように紹介されている(囃し言葉は長いので、省略した)。

 町の子供が五人十人と一団となって、ヒョーヒョー(木綿の筒袖の上着)の片方の袖を別の袖におし込んで頭に被り、「千艘(せんざい)入ろう、万艘(まんざい)入ろう、先づ一番のお船には、お船頭をおきやれや、錦魚丸という船は、表飾って槍立てて、榊を立てて七五三(しめ)を張り…」と囃し立て乍ら町内を巡って銭をもらう。家人が望み通りに銭を与えた時には「こちの竈の前ア、金銀積んだア、見さいな見さいな」と褒め、之に反した時には「こちの旦那どんなア、内にか外か、竈の前見て見りや、どんぎり積んだむさいな、むさいな」と罵る。尚この銭は子供の懇親会の費用となる。

 かいつまんで書けば、扮装した子供たちが徒党を組んで家々を回り金銭を要求、従わなければ、家主を罵倒し、集まった金は飲み食いに使っていたというわけだ。佐々木慈寛氏の文章が非常に端的なこともあり、催しの表面だけをなぞると、まるで少年恐喝団が博多の街を跋扈していたようだが、「銭をもらう」を「ご祝儀をもらう」に言い換えるだけで、ずいぶん趣は変わる気もする。

 似たような催しは他にもあるのではないかと調べたところでは、鹿児島県の種子島などに現在も伝わる「福祭文(くさいもん)」という正月行事がよく似ているように思えた。毎年1月7日の夕方から、子供たちが大人を交えて家々を回り、玄関で各家の幸福と繁栄を祈って「福祭文」を合唱、終わるとご祝儀をもらって後にするというものだ。ご祝儀をもらえない時の罵倒がないこと以外は、「千ざいろう」と共通点が多い。

 また、「千ざいろう」では、子供たちが服を被っているが、これが稲わらだったら、今話題の来訪神行事のようでもある。農村ではなく、交易(港)で栄えた商人の街・博多だから、このような形に変容したのではないかと想像も広がる。

 「千ざいろう」の成り立ちなどを調べようと思い、図書館で『博多年中行事』以外の文献を探してみたのだが、これが不思議なことに、数十冊をめくっても「千ざいろう」について触れたものを見つけることはできなかった。ようやく探し当てることができたのは雑誌『博多のうわさ』に、郷土史家の井上精三氏(1901~88)が「明治のわらべ唄」について書いた一文だ。先に紹介した囃し言葉がわらべ唄の一つとして歌詞全文が紹介され、「明治の中期にすたれてしまった博多の子供による正月行事。夜になると数人の子供が一団となって、家の門前でこの唄をうたい、銭または餅をもらって歩きまわった。歌詞はその家を寿ぐめでたづくしで、言い立てに類する」という短い解説文があった。

 明治時代には廃れてしまった催しだから、古くても戦前の風習・風俗ぐらいしか取り上げていなかった他の文献には一切の記述がなかったわけだ。

 佐々木、井上両氏の説明文は、“ご祝儀をもらえない時の罵倒”以外はほぼ同じで、繰り返しになるが、これがあるかないかで、「千ざいろう」の雰囲気はまるで異なってくる。よほど偏屈な人でもない限り、繁栄を祈って家々を回る子供たちを邪険には扱わないはずで、まったくの臆測だが、一部の家がいったんご祝儀要求を断り、悪口雑言を浴びるのも一種のお約束だったのではないかという気もする。現代の正月、子供たちはお年玉を楽しみにしているが、中身が現金になったのは比較的近年、主に都市部から広がっていった風習で、もともとは餅だったらしい。「千ざいろう」の消滅で、お金をもらえる貴重な機会も失った明治の博多の子供たちは、さぞかし残念がったことだろう。
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赤く塗られた頭蓋骨を見て人骨標本の空騒ぎを思う

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 福岡市博物館の企画展示室に現在、赤く塗られた頭蓋骨が展示されている。西区にある千里大久保遺跡の発掘調査で、5世紀に造られた円墳から出土したもの。赤く塗られているのは、魔よけの意味とともに、顔料に防腐効果があるためで、顔料の正体は分析の結果、ベンガラと判明したという。上の写真は60歳代ぐらいの男性で、下は40~50歳代の女性。支配階級だけあって、30歳ぐらいとされる古墳時代人の平均寿命をどちらも大幅に上回っている。こんな頭蓋骨を日常生活で目撃したら恐怖を感じることだろうが、博物館や資料館で見ると、考古資料の一つに過ぎない。形態人類学の素養などかけらもないのに、撮影してきた写真を眺めては頭蓋骨の素性などについて、あれこれと想像を膨らませている。

 頭蓋骨と言えば、昨年から今年にかけて全国の学校で本物の人骨標本が相次いで見つかり、騒ぎになった。「怪談」などと煽るネットメディアもあったようだが、これだけあちこちの学校にあったのだから、本物の人骨を使った骨格標本が昔は当たり前にあったと考えるのが普通だろう。実際に一部新聞には「昭和40年代頃までは販売していた」というメーカーの証言が載っていた。通販サイトで確かめたところ、実物大の骨格模型は現在、数万円から十数万円程度で販売されているようだが、ひょっとしたら精巧な模型よりも本物の人骨標本の方が手に入りやすい時代もあったのではないだろうか。

 今回の騒動で思い出したのが、2年前、大分県を震源地に起きた神社の砲弾騒ぎだ(
「突然起きた神社の砲弾騒動」)。神社に奉納されていた古い砲弾が、突如として「不発弾ではないか!」と危険視され、回収騒ぎが起きたというもので、この時も一部新聞は過去に起きた不発弾爆発事故などを持ち出し、いたずらに不安を煽っていた。

 しかし、騒動の際に調べたところ、戦前、陸海軍が「軍事思想啓発」のため砲弾などの廃兵器を自治体や学校などに下げ渡していたことがわかった。また、騒動当時の報道によると、日清・日露戦争に従軍した兵士が戦勝記念として地元の神社に奉納したケースもあったという。どちらにせよ、見つかった砲弾の多くは単なる戦時資料だったと思われる。少なくとも、回収された砲弾に爆発の恐れがあったという報道にはその後接した記憶はない。

 二つの騒動に共通していることは、標本や砲弾の由来について、記録が全く残されていなかったことに加え、それが何かを知る人さえいなかったということだろう。正体がわからなければ、特に砲弾は危険物なのだから、騒ぎになるのも無理はなく、逆に言えば、きちんとした記録が残されてさえいれば、二つの騒動は起きなかったのではないかと思える。

 グーグルやヤフーの検索窓に言葉を入力すれば、知りたい情報が得られる、ありがたい世の中になった。しかし、このブログを始めて痛感するのは、非常に当たり前のことではあるが、だからといってネットで得られる情報はまだまだ限られているということだ。お陰で昔はさして縁のなかった県立図書館や福岡市総合図書館に文献を求めて足しげく通うようになった。それでも目指す文書資料を見つけることができないケースがほとんどで、存在の有無さえわからないことも多い。媒体はなんであれ、わかりやすく記録するのは大事なことだとつくづく思う。
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山辺道と草野の町

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 農産物の直売所巡りで、福岡県久留米市と大分県日田市を結ぶ道をよく通っている。以前は国道210号線ばかりを使っていたが、最近は景観に魅かれ、耳納連山の北麓を走る県道151号線を通ることが多くなった。藩政時代には旧街道の脇道だった路線で、通称は「山辺道」。奈良県にある同名の古道は「やまのべのみち」だが、こちらは「やまべのみち」と読む。耳納山麓に多数の古墳が連なる景観を奈良になぞらえ、考古学者の森貞次郎氏は「筑後山辺道」と呼んだという(『装飾古墳紀行』玉利勲、1984)。

 現在は沿線に民家などが立ち並び、山辺道よりもさらに耳納連山側を走る
「山苞(やまづと)の道」の方が古代の面影を残していると思うが、この辺りの生業の庭木や果樹が彩る山辺道の沿線風景は独特だ。また、旧宿場町の町並みが残る草野(久留米市)の存在も、この道を個性的なものにしている。

 草野は、中世から戦国時代末期にかけて一帯を治めた豪族・草野氏の拠点だったところで、久留米市立草野歴史資料館の公表資料には、草野について「中世には城下町として、江戸時代には宿場駅として栄えた」と記されている。中世、この地に「城下町」と呼ぶものがあったとは今一つ信じがたいが、公立資料館が断言しているのだから、宿場町のベースとなるような集積はあったのだろう。

 『福岡の町並み』(アクロス福岡文化誌編纂委員会、2011)には、旧日田街道が成立した藩政時代初期、草野は「宿駅として町建てされ、在郷町として発展してきた」とあった。現在の町の景観は、明治期に大地主らによって大型の質の高い町家が多く建てられたことによって形成されたと記されていた。在郷町とは、商工業が集積した農村地帯の町を指すという。

 草野の町並みを特徴づけているのは、宿場町特有の直角に折れ曲がった街路や草野歴史資料館(写真)をはじめとする黄緑や水色に塗られた洋風建築だ。資料館は1911年(明治44)、旧・草野銀行本店として建築され、戦後も福銀草野支店などとして使われた後、1984年2月に資料館に衣替えした。木造一部二階建てで、建物本体のほか、門も国の登録文化財となっている。この建物に関する資料を探していたところ、県教委が先頃発行した『福岡県の近代和風建築』に取り上げられていたので、一瞬不思議に思ったのだが、外観は洋風ながら内部は和風に仕立てた和洋折衷の建物だという。「明治期の木造の地方銀行の主屋の在り方を示す好例である」とも記されていた。

 久留米市はこの建物を資料館として保存したのに続き、86年12月には「伝統的な町並み保存条例」を制定している。当時、草野には大正期に建てられた洋風建築の廃業医院2棟が残り、先行きが心配されていたというが、条例制定が追い風となり、1棟は文化施設「山辺道文化館」として、もう1棟は民間によって現在も保存活用されている(写真2枚目)。そもそも条例の制定自体が、草野の町並みを守るためだったようだ。こういった「古き良きもの」を積極的に守ろうとする行政の姿勢は、非常に羨ましい。
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発掘調査が続く潮見櫓跡、復元はいつになる?

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 福岡城址の潮見櫓跡で発掘調査が行われている。私が気付いたのはつい最近だが、現地の立て看板によると、調査は昨年8月に始まったとのことで、終了期日については「未定」と結構衝撃的なことが書かれていた。何が衝撃なのかと言えば、福岡市が2014年6月に策定した『福岡城跡整備基本計画』の中で、潮見櫓は2014年度から18年度までの5年間で復元されることになっていたからだ。つまり今年3月までに復元工事が完成していなければならない。ところが、潮見櫓跡地ではまだ、いつ終わるかもわからない発掘調査が続いている。2015年9月に書いた「動き出した潮見櫓復元」で、「そう遠くない将来、福岡簡保事務センター横の土塁上に姿を現すことだろう」と予想したが、現実にはまだまだ時間がかかりそうな気配なので、見込み違いをお詫びする。

 『福岡城跡整備基本計画』は2014年度から28年度までの15年間で、福岡城にあった数々の建物などを復元、または現存する建物を修理しようというもので、文化施策というよりは、熊本城整備に倣った観光施策の面が色濃いと思う。整備事業は2018年度までの短期計画、19年度から28年度までの中期計画の2期に分けられ、短期計画では長屋門や多聞櫓の修復、潮見櫓復元、中期計画では武具櫓、裏御門、太鼓櫓、扇坂等の復元が予定されていた。長屋門、多聞櫓の修復は予定通り行われ、すでに完了している。

 事業費は短期が約22億円、中期が約48億円の計約70億円。このうち3億5000万円を市民らからの寄付で賄う予定だったが、NHK大河ドラマ放映で一時燃え上がった黒田官兵衛ブームも沈静化し、思うように寄付が集まっていないと報道されていた。

 ところで、なぜ短期計画の段階で早くもスケジュールは遅れ気味なのか。市は遅れを公式に認めているわけではないので、理由は全く不明だが、少し思い当たるところはある。上記「動き出した潮見櫓復元」は、基本設計を担当する業者の公募が始まったのを受けて書いたもので、この時は2015年度中に基本設計を終え、16年度から実施設計に移ると公表されていた。ところが、市側が昨年3月の議会特別委で公表した今年度のスケジュールでは「復元に向けた基本設計に着手する」となっているのである。

 ちょっと信じ難い話だが、今頃になって発掘調査が続いているところを見ると、恐らく2015年度の段階では、基本設計をやろうにも、そのためのデータが足りなかったのだろう。潮見櫓跡地では1990年代、この土地を駐車場などとして使用していた国立福岡病院の移転に伴い、複数回にわたって発掘調査が行われているが、これらの調査結果だけでは不足だったのだ。

 今年度は「基本設計に着手する」だけなので、完了は2019年度以降。さらに続いて実施設計、その後に復元工事が始まるという段取りを踏まえると、短期計画で終わるはずだった潮見櫓復元は、中期計画に相当ずれ込むことになる。これにより中期計画のスケジュールにも影響が出るはずで、財政事情など城跡整備を巡る状況に変化があれば、計画自体に黄信号が灯ることもあり得るだろう。行政というものは年度ごとの予算で動いているので、きちっとしたものだと思ってきたが、こういった「基本計画」「基本構想」などというものは相当アバウトなものだとようやくわかってきた。

 最後に潮見櫓について記しておくと、この櫓は福岡城の北西の隅にあり、博多湾の監視を担っていたと言われている。明治時代に花見櫓とともに福岡藩主・黒田家の菩提寺、崇福寺に払い下げられ、仏殿として利用されていたが、1991年、将来の復元に備えて市が買い戻し、解体保管している。実は買い戻した当時は月見櫓だと信じられていたのだが、その後の月見櫓跡地の調査で、基壇から考えると建物は5㍍×7㍍のサイズに収まるはずなのに、実際は8㍍×7㍍と大きすぎるなど疑問点が持ち上がった。さらに部材の中から実際は潮見櫓であることを示す札も見つかり、伝わっている櫓名に混乱があったことが確認された。

 紛らわしいのは潮見櫓だと伝えられてきた別の櫓があったことで、こちらは黒田家別邸に移されていたが、1956年、現在地の下之橋御門横に復元された。現在は「伝」潮見櫓と呼ばれているが、正体は太鼓櫓らしい。潮見櫓だと思われていたのに、なぜ本来の跡地に復元されなかったのかと言えば、当時、米軍が跡地を駐車場として使用していたためだという。事情があったにせよ、史実を無視した復元には当時、批判があったとも聞くが、潮見櫓があるべき場所に別の櫓が建っているというおかしな事態は、結果的に避けられた。
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「漢委奴国王」の金印、帰郷40周年

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 入館料が200円と格安なこともあり、暇な時は福岡市博物館の常設&企画展示室に入り浸っている(特別展は入館料が高いので、よほど興味がある時以外は行かない)。企画展示室では年明けから、新春の恒例となった感がある国宝の名刀「圧切(へしきり)長谷部」の展示が始まり、今年も刀剣女子たちが詰めかけている。同じく国宝「漢委奴国王」の金印=写真=が出迎える常設展示室も普段に比べれば、にぎわっている感じだ。

 この金印、福岡に戻ってきてから今年で40周年になる。以前はどこにあったかと言えば、もちろん東京で、上野の国立博物館に収蔵されていた。2011年4月に書いた
「福岡市博物館、大改修へ」で、「国立博物館に召し上げられ」といい加減なことを書いてしまったが、東京時代に所有していたのは旧・福岡藩主の黒田家で、国立博物館は黒田家から寄託を受けていたというのが正確だ。この当時、福岡市には国宝を預かるに足る施設はなかった。

 しかし、福岡市が立派な美術館建設を始めると、黒田家は1978年、金印や「圧切長谷部」をはじめとする歴史資料や古美術品などの数々を惜しげもなく福岡市に寄贈した。この年に亡くなった第14代当主・長礼(ながみち)氏の「黒田家の宝は福岡へ帰すのが筋」という遺志を守ってのことで、金印を手放すことになった国立博物館は非常に悔しがったとも言われている。
 
 福岡市美術館は79年11月3日に開館し、金印はこの日から一般公開が始まった。前年に寄贈を受けたものの、美術館完成までは国立博物館が保管を続けていたため、今年が帰郷40周年に当たる。1990年10月に福岡市博物館が開館すると、金印は博物館で収蔵・展示するのがふさわしいとトレードされ、現在に至っている。なお、金印がいつ東京に持ち込まれたかについては、色々と文献資料を当たったのだが、よくわからなかった。最後の藩主・黒田長知が福岡を離れ、東京に移住した1871年(明治4)だろうとは思うが、藩政時代から福岡藩の江戸藩邸に保管されていたという話もあるらしい。

 国立博物館収蔵時代、金印は事実上、門外不出の状態で、まれに考古学関連の企画展などで展示された時は大変な人気だったという。それが現在では、わずか200円の料金で誰でも目にすることができる。以前、福岡を離れた後の黒田家の功績として、修猷館の再興と黒田奨学会運営を挙げたことがあるが、金印などの文化財寄贈もこれに加えるべきだろう。

 私はどちらかと言えば、アンチ黒田(昔は福岡、とりわけ博多部では少なくなかった)で、このブログでも「名君不在の福岡藩らしく不名誉な歴史ばかり」などと悪口ばかり書いてきたが、福岡の教育・文化に対する黒田家の貢献は極めて大きいと思う。
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子供時代の自分を褒めてあげたい

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 正月休み、宮崎県内の道の駅を巡った帰りに、とある農村部の道を通った。この道沿いにはかつて、家族の祖父の家があり、家族は宮崎市に住んでいた子供時代、夏休みには両親に連れられ姉妹3人で遊びに行き、祖父宅で過ごすのを楽しみにしていた。ただ、移動は大変だったという。当時はマイカーがなかったため、最寄の駅で列車を降りた後は祖父宅まで歩いて行っていたが、これがずいぶん遠かった上に、道もでこぼこ。長い長い時間をかけて祖父宅がある集落にたどり着いた時は本当にうれしかった、と家族は懐かしがっていた。

 今回、三姉妹が歩いたルートを車でたどってみたわけだが、本当にこんな道を幼い子供が歩いていたのか、と驚いた。「ずいぶん」どころではない遠さだったのだ。車でも所要時間はたっぷり十数分。しかも現在では舗装されているとは言え、駅から集落までは民家はまったくなく、道の両側はほぼ山林という寂しい道だった。

 帰宅後にグーグルマップを使って距離を測ってみたところ、約8㌔。大人でも徒歩1時間半以上は十分かかる。幼い子供の足ならば、確かに「長い長い」道のりだったことだろう。三姉妹の間では、今でもこの頃の思い出話で盛り上がることがあるらしいが、幼児の頃から8㌔を歩き通していた末っ子の口癖は「子供時代の自分を褒めてあげたい」だという。

 早くに伴侶を失ったため、長く独り暮らしだった祖父宅はかやぶきの古い家で、夏は過ごしやすかったという。家の前には畑が広がり、三姉妹はこの周りを三輪車で走り回ったり、祖父が庭木を利用して手作りしてくれたブランコで遊んだり、近くを流れる小川で涼んだりしていた。この思い出が詰まった家も、祖父が亡くなって空き家になると、空き巣に狙われるようになり、治安悪化を嫌った地域の要望もあり、自治体に買い取られた。今では公共施設が建っている。家族は子供の頃、相当広い敷地だと思っていたが、実際は猫の額ほどだったという。

 ところで、空き巣は何を盗んでいったのか? 裕福な暮らしをしていたわけではないので、いわゆる金目のものなど何もなかったが、囲炉裏端にあった自在鉤や鉄瓶、金属製の取っ手が付いた古ぼけたタンス、大きな壷など、家具・調度類がごっそり消えていたという。古民家やレトロ調の家具などに人気が出始めた頃の出来事だったらしい。テレビで鑑定番組を見るたび、家族は「盗まれた自在鉤や鉄瓶は、きっと今だったら高値で売れたのに」と悔しがっている。
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