弁当代わりに遠足に持って行ったハンバーガー

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 数年前、40数年ぶりに福岡市博多区竹下の街を歩いた際、ここに暮らしていた時代に時折通っていたパン屋を探してみたことがある。街並みは全体としては意外なほど変わっていなかったのだが、残念ながらパン屋があった付近は様変わりし、懐かしの店に再会とはいかなかった。店名までは覚えていなかったので、この時に古い住宅地図をめくって確かめたのだが、地域名をストレートに冠した「竹下パン」だった。この街には現在も似た名前のパン工場があるが、関係があるのかはわからない。

 私が竹下で暮らしていたのは1969~70年頃のことで、住んでいたのは5階建てのアパート5棟が並ぶ雇用促進住宅だった。狭い道を挟んだ向かい側には小さなショッピングセンターがあり、名前は「アイ」としゃれていたが、実態は八百屋や肉屋、玩具屋、駄菓子屋などの個人商店が並んだマーケット。夕方になると、夕飯の買い物に来た主婦や小銭を握りしめた子供たちでにぎわっていた。ここの裏口を抜けると駅前通り(今はなんと「竹下通り」と呼ぶらしい)に通じる細い路地があり、通りに面した場所にあったのがパン屋だ。

 確か夫婦で経営していた庶民的な雰囲気の店で、パンや洋菓子などの商品はショーケースの中に並んでいた。あまり豊かでもない父子家庭の子供にとって、普段は縁遠い場所だったが、遠足の前日に買い物に行くことが時折あった。親に金を渡され、弁当代わりに昼に食べる調理パンを買いに行っていたのだ。

 朝から弁当を用意したくはないが、かといって菓子パンを持たせるのは気が引ける。出た結論が調理パンだったのだろう、と当時の親の気持ちを想像しているが、私の方はやはり複雑だった。みんなが手の込んだ弁当を開く時に、菓子パンだろうが調理パンだろうがパンをかじるのはあまり気持ちの良いものではない。しかし、矛盾する話だが、一方で楽しみな気持ちもあった。この調理パンが実にうまかったのだ。(コンビニや持ち帰り弁当店などは存在せず、スーパーでもおにぎりなどが市販されていなかった時代の話なので、念のため)

 どんな調理パンだったのかと言えば、簡単に説明できる。ハンバーガーだ。つまり小学生の一時期、ハンバーガーを持って遠足に行っていたわけで、表面的な事実だけを見れば、昭和時代としては結構モダンな話になる。レタスやトマトなどが入った彩り豊かな現在のハンバーガーとは違い、肉とタマネギを挟んでソースで味付けした非常にシンプルな品だったと記憶しているが、米国アニメで登場人物がうまそうに頬張っていた、あのハンバーガーを現実に口にできるのはうれしかった。ものすごく意外なことだったが、弁当を持たない私をうらやましげに見る級友さえいたほどだ。

 ハンバーガーを日本でも大衆的なものにした日本マクドナルドの第1号店開店は1971年で、九州で店があちこちに出来始めるのはさらに後年のことだ。だから、この思い出話を披露すると、多くの人が半信半疑といった表情を見せ、家族でさえ「本当にハンバーガーがまちのパン屋で売られていたの?」と懐疑的だ。しかし、後に移り住んだ現在の生活圏では、チェーン店進出以前から個人経営のハンバーガーショップが普通にあり、すでにハンバーガーは市民権を得ていた。ひょっとしたら、まちのパン屋のハンバーガーは「調理パン」の一種として記憶のがらくた箱の中にしまい込んでしまい、マクドナルドやロッテリアで初めてハンバーガーを食べたと自分で記憶を改ざんしてしまった人もいるのではないかと疑っている。
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路面電車を福岡市によこせ

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 福岡市内を走っていた西鉄の路面電車(福岡市内線)が1979年2月に全廃されてから、今年でちょうど40年になる。この機会に西鉄路面電車の歴史を調べていたところ、興味深い出来事があったのを知った。廃止の10年ほど前、福岡市が西鉄に対して「路面電車の経営権をよこせ」と要求したことがあったのだ。当然ながら西鉄は強く拒否。蜜月と言われる現在とは違い、両者は厳しく対立していた。

 民間企業に資産をよこせとはずいぶん横暴な話だが、これには一応の理由があった。西鉄路面電車の前身企業の一つ、福博電気軌道が1907年(明治40)、福岡市との間で報償契約なるものを結び、この中に「開通から50年後、経営権の一切を市に譲る」という項目があったのだ。

 福博電気軌道の営業開始は1910年3月なので、50年後とは1960年に当たる。福岡市はこれを盾に取り、1969年頃から経営権譲渡を強く西鉄に迫り始めた。西鉄側は、報償契約はその後何度も結び直しているが、新たな契約には譲渡の項目はなく、もはや無効だと反論していた。今、両者の主張を見比べてみると、西鉄側の主張の方に理があるように思えるが、福岡市側には「裁判に訴えてでも」という強硬論があったほどだから、それなりに勝算があったのかもしれない。

 それにしても、福岡市はなぜ、路面電車の経営権などを欲しがったのだろうか。1979年には全廃されることでもわかるように、すでに路面電車は西鉄にとってもお荷物となっており、1968年7月の記者会見で当時の社長は「西鉄の市内電車は、急場しのぎの運賃値上げをいくらやっても、立ち直れなくなっている」(『西日本鉄道百年史』2008、以下『百年史』)と事実上の降参宣言をしていたほどだ。

 ピーク時の1959年度には1億人を超えていた年間利用客も70年代にはほぼ半減し、当時の報道によると、年間の赤字は十数億円にも上っていた。西鉄社内には「そんなに市が欲しがるのならば、従業員ごと路面電車をくれてやればいい」という声さえあったという(実際に路面電車廃止後、西鉄の余剰人員300人を市が引き受けている)。

 餅は餅屋の西鉄でもうまくいかなかった路面電車の経営について、市に成算があったとは到底思えない。『百年史』や当時の新聞記事などでも、今ひとつ市の真意がつかめないのだが、『福岡市史(昭和編続編二)』(1990)を読んで漠然とながら見えてきたものがある。この路面電車の経営権問題は、『福岡市史』では「西鉄市内電車の無償譲渡問題」とのタイトルで福岡市営地下鉄の章に収められている。これだけで地下鉄と密接にかかわる案件だったことがわかるが、さらに以下のような記述があった。

 当初譲渡契約無効を主張していた西鉄側も、路面電車利用客の減少と全国的な廃止の傾向から「債権、債務、従業員を含めた譲渡であれば市の申し入れに応じてもよい」との考えを示すに至り、昭和四十五年八月二十三日ようやく和解に達し、和解協定書を締結する運びとなった。その後、和解についての臨時市議会が開かれ、市と西鉄は協力して都市交通の諸問題に取り組むことで、同年十月、福岡市・市議会・西鉄の三者による「福岡都市交通問題協議会」が発足した。

 この福岡都市交通問題協議会こそ、市が構想していた地下鉄建設と、これと密接に絡む路面電車の廃止を巡り、西鉄余剰人員の受け入れを含めた補償問題などを話し合った場だ。4年にわたる話し合いの末、1974年1月30日、当時の進藤一馬市長と西鉄社長によるトップ会談で地下鉄建設と路面電車の段階的な廃止で合意し、これを受けて市は2月1日、鉄道事業免許を運輸大臣に申請した。こうしてみると、路面電車の経営権譲渡要求とは、西鉄を協議の場に引っ張り出し、さらに補償等を巡る議論を優位に進めていくための一種の方便だったのではないかと思える。なお、西鉄側が「市の申し入れに応じてもよい」との姿勢を見せていたというのは『百年史』にはなかった部分だ。

 地下鉄建設が動き出したのを受け、西鉄路面電車のうち、建設工事が開削工法で行われるため運行が不可能になる貫線、城南線、呉服町線の3路線はいち早く1975年11月2日に廃止になり、残る貝塚線、循環線も79年2月11日廃止となった。当時、車社会の到来で路面電車は確かに道路交通の邪魔者にはなっていたが、一方で「将来、絶対に後悔する」と廃止に反対する声も、特に文化人や知識人と呼ばれる人の間では少なくなかった。

 私自身はあまり路面電車を使っていなかったこともあって、廃止の際も特に感慨はなかったが、現在も路面電車が健在の熊本や長崎で利用してみると「意外に便利な乗り物だな」と思う。福岡市が現在、路面電車の廃止を後悔しているのか否かは知らないが、新たな交通インフラは求められているらしく、JR博多駅と港湾地区とを結ぶ大博通りでは、現職市長が旗振り役となってロープウェイ建設構想が浮上している。素人考えながら、他都市を見ていると、ロープウェイの新設などより路面電車を復活させた方がコスト面でも輸送力の面でも有利だと思うのだが、それとも路面電車はやはり今でも道路交通の邪魔者でしかないのだろうか。
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子供の頃、チクロを飲んでいた

 ちょうど半世紀前のことだ。1969年、チクロという人工甘味料に発癌性があると疑われ、使用禁止を巡って大騒動になった。当時の私は小学校低学年で、本来だったらこういった社会問題を覚えているはずもないのだが、チクロは事情が違った。砂糖の安い代用品として駄菓子や粉末ジュースなどに使われていたため、チクロ追放は、私たち貧しい子供たちを直撃したのだ。

 何よりこの騒動が始まって以降、不愉快な目にしばしば遭うようになった。現在も類似商品が販売されているが、当時、棒状のポリエチレン袋に入ったジュースや粉末ジュースが1本(または1袋)5円から10円程度の安い値段で売られていた。自分の小遣いで買うことができる数少ない商品だったこともあり、好んで口にしていたが、騒動が起きて以降も飲んでいると、コカ・コーラやセブンアップなどを小遣いで買える裕福な連中から「チクロやら飲んどうぜ」と小ばかにされる羽目になったのだ。

 これらの商品に本当にチクロが使用されていたのか、実際のところは知らないのだが、チクロの使用が現実に禁止されて以降、こういった商品の一部は店頭から消えた記憶があるので、恐らく使われていたのだろう。健康に絡む問題なのだから仕方のないことだが、チクロの禁止で、私たちは安いおやつを奪われることになった。

 このチクロ、前世紀に消え去った代物だとばかり思っていたが、最近でも時折、輸入食品からチクロが検出され、回収命令が出されたなどのニュースを目にすることがある。ヨーロッパ諸国などチクロの使用を認めている国が少なくないことを、これらの報道を通じて初めて知った。それどころか、チクロに発癌性ありと真っ先に警鐘を鳴らしたのは米国だが、当の米国では比較的早い段階でこの疑いが否定されていたことも。ところが、米国は日本と同様、チクロの使用禁止を続けている。何となくモヤモヤしたものを感じたため、1969年当時の経緯をこの機会に調べてみた。チクロ禁止は、考えられないような異常なスピードで決まっていた。

 主な出来事を時系列でまとめると、1969年9月12日、米食品医薬品局(FDA)がラットを使った実験の結果、チクロに発癌性があると発表。この結果を受けて約1か月後の10月18日、米政府はチクロの全面禁止と回収を命じた。日本でもチクロ禁止を求める声が高まり、政府は11月11日には全面禁止に踏み切った。つまりFDAの実験結果発表から、わずか2か月で日本国内からのチクロ追放が決まったのだ。

 この当時は発癌性があると信じられていたのだから、国民の健康を守るためには当然だと言われるかもしれないが、今も昔も何事にも後手後手に回るのが得意で、消費者よりも業界を守ることで定評のある我らが日本政府である。実際にチクロが使われた製品の回収期限は70年10月まで延期し、国民の健康より業界優先かと猛烈な批判を浴びている。米国にチクロ産業を潰したい何らかの裏事情でもあり、日本は例によって右に倣えで従っただけではないかと邪推したくなる。

 日本政府のスピーディーなチクロ使用禁止決定に対し、報道機関からは当時、「英断」と評価する声もあったようだが、一方で、冷静な議論がなかったと批判する意見もあった。例えば、著名な国際政治学者だった高坂正堯氏はチクロ使用禁止を「衝動的な決定としか見えないし、人々のチクロ恐怖症はヒステリカルなものであったとしか思われない」と批判した上で、甘味料を砂糖にだけ頼ることは健康上100%良いとは言えないと警鐘を鳴らしている。同様の意見は現在、医療関係者の間にもある。日本は世界でも有数の糖尿病大国らしいが、仮にチクロの使用が禁止されていなかったら、状況に違いはあったのだろうか。
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もう一つあった浪人身代わり物語

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 以前、福岡市中央区唐人町の成道寺境内にある八兵衛地蔵の由来について紹介したことがある。元禄時代、唐人町と須崎町の火消しが乱闘になり、須崎町側に死者が出た。役所から下手人を差し出せと厳しく迫られ、唐人町の関係者が苦悩していたところ、この町に住んでいた肥後浪人の森八兵衛が「町の皆さんに世話になったお礼に、独り身の私が罪を背負いましょう」と自ら身代わりになり、死罪となった。深く感謝した町の人々は八兵衛地蔵を建てて供養した、というのがあらすじだ。これにそっくりな話が江戸時代中期に書かれた博多の地誌『石城志』にあるのを見つけた。時代や登場人物の出自などは異なるが、筋立ては酷似している。この二つの物語は、どのような関係にあるのだろうか。

 『石城志』には「慶長四年正月、名嶋中納言秀秋卿より、肥後の国主加藤氏へ年賀の使者さし越れしに…」という書き出しで、以下のような物語が紹介されている。博多が小早川秀秋の治世下にあった慶長4年(1599)の正月7日、博多松囃子(博多どんたくの源流に当たる本来は正月行事)の一行が筥崎宮に参ったところ、「いかなる故にか」秀秋の使者と衝突して口論になり、ついには使者を殺害してしまった。秀秋からの再三の要求に応じ、下手人を差し出すことが決まった時、対馬小路に住んでいた中国浪人(一説には日向浪人)が身代わりになることを申し出た。

 この浪人は、博多の住民たちの助けで暮らしてきたことから、「今此恩を報ぜずんば、いつれの時をか期すべきとて」という思いで決心し、住民たちには一人残される老母の世話を頼み、筥崎松原で処刑された。この事件以降、松囃子は取りやめとなった。40年余り後の寛永19年(1642)、福岡藩二代藩主の黒田忠之の命で再興されたが、途絶していた間に松囃子の伝統はすっかり失われていたことから、町中の古老を集めて記憶を呼び覚ましてもらったという。

 以上が「もう一つの浪人身代わり物語」の大雑把な内容で、繰り返しになるが、八兵衛地蔵の由来とは元々は同一の物語だったとしか思えない程、似通っている。なお、松囃子の途絶と再興については、『石城志』のほか、貝原益軒の『筑前国続風土記』にも「慶長五年より寛永十八年迄中絶せしを、忠之公の命に依て、寛永十九年正月十五日より、博多の町人再興して」(寛永十九年は1642年)とあるが、こちらには途絶の理由については書かれていない

 『石城志』は明和2年(1765)に書かれたもので、著者は医師だった津田元顧・元貫父子。浪人身代わり物語は、この巻之六の「歳時」の中で紹介されている。『石城志』は博多の歴史を知る上で非常に信頼されている文献で、だからというわけではないが、事件の発生が慶長4年と具体的で、松囃子の歴史とも密接に結びついた『石城志』の方が、八兵衛地蔵の由来よりも真実味を感じる。ただし、現在も地域住民の間で大切に語り伝えられているのは八兵衛地蔵の由来の方だが。


 写真は現在の松囃子の模様。福岡市の写真ダウンロードサイト「まるごと福岡博多」からお借りした。
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明治23年の集合写真、神吉某の正体は

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 上の集合写真は、1939年(昭和14)発行の『福岡市市制施行五十年史』に掲載されていたもので、写真説明には「明治23年夏、処は東中洲の一角、福岡くらぶ(市内最初の赤煉瓦洋館)を背景とした名士』と記されている。前列右から6人目は初代福岡市長の山中立木、後列右から4人目が第2代市長の磯野七平。私が辛うじて名前を知っていた人物は、この二人だけだったが、残るメンバーも、福岡最初の銀行・第十七銀行、電力会社の九州電燈、そして博多商議所などの創設メンバーらが多くを占め、この写真に写っていたのは、確かに当時の福博政財界の大立者たちだったようだ。

 しかし、妙な写真だと思う。19人の人物が写っているが、全員の視線がてんでバラバラなのだ。撮影したカメラに目を向けていると思われるのは磯野ら5、6人ほどで、山中ら主に前列のメンバーは向かって斜め右方向に顔を向けている。彼らとは逆の方向を向いている者も複数おり、名士というより聞き分けのない悪童たちの集合写真のようでもある。複数のカメラが向けられていたため、視線が定まらなかったのだろうか。

 この写真がもう一つ妙なのは、名士たちの写真であるはずなのに、一人だけ匿名同然の人物が交じっていることだ。後列左から3人目のパンチパーマのような髪型をした長身の人物で、彼だけはフルネームではなく神吉某(なにがし)と記されている。『五十年史』発行は、この写真が撮られてから約半世紀後のことで、50年の間に神吉の素性は不明となったのだろうか。

 少し調べてみたところ、集合写真に写るメンバーの周辺に、神吉秀成という人物がいたことがわかった。この人物こそが神吉某の正体ではないかと思うが、残念ながら詳しい素性までは突き止められなかった。このブログらしく、いかにも中途半端な話になるが、神吉秀成についてわかったことを以下に簡単にまとめたい。

 最初に、冒頭の写真説明にある「福岡くらぶ」についてだが、これは建物の名称であるとともに、ここを本拠にした団体名でもあった。この福岡くらぶとは、福岡市の様々な職業の者が交流を深めるために結成した一種の社交的団体だったようで、1886年(明治19)2月に結成総会を行っているが、170人あまりの参加者の中に、神吉秀成の名前がある。結成当初の役員には、常議員長の山中立木をはじめ、下沢善四郎、服部文助、江藤正澄、瀬戸惣太郎ら、集合写真に写るメンバーが多数名を連ねている。福岡くらぶは写真が撮影された1890年(明治23)の9月に解散しているが、この集合写真自体が恐らく、解散を目前にした役員たちの記念写真だったのではないだろうか。

 神吉秀成の名前は、福岡自由倶楽部という団体の結成メンバーの中にもある。この福岡自由倶楽部とは1890年6月に結成されたものの、3か月後の9月には立憲自由党に加盟するため解散した非常に短命だったローカルパーティーで、この一員だったということは、神吉はいわゆる自由民権運動家の一人だったのだろう。

 このほかに神吉に関する文献資料を見つけることはできなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの中に神吉秀成著『日本将来之政治及教育』(磊落堂、1888)という資料が収録されており、この奥付には「著作者 同県平民福岡区福岡舩町三十番地 神吉秀成」とあった。磊落堂は福岡市にあった地方出版社で、出版年を見ても、著作者の神吉秀成は間違いなく同一人物だろう。

 この奥付から神吉は、山中立木や小河久四郎のように旧福岡藩士ではなかったことがわかる。また、福岡市のインフラ整備や市政関係の資料には全く名前が出てこないことを考えると、野村久一郎や瀬戸惣太郎、磯野七平のような実業家、下沢善四郎、中尾卯兵衛(写真には卯平とあるが、他の資料にはすべて卯兵衛と表記されている)、山本与志介のような市議経験者でもなかったと思われる。そもそも実業家や市議経験者だったならば、神吉某と素性不明になるはずがない。福岡くらぶに集った者たちで、ほかに考えられるとしたら、市井の研究者、教育者あたりだろうか。

 『日本将来之政治及教育』はタイトル通り、将来の政治、教育のあり方について提言したもので、活字本ではないため読むのに骨が折れ、ざっと目を通しただけだが、政治については地方の自立を促すため現在の道州制みたいなものを提唱し、教育については政治からの独立を訴えていた。中でも帝国大学(当時は現在の東大だけが唯一の帝大だった)を政治的影響から守るための具体策として、佐渡、生野鉱山を帝国大に付与して経費を賄うとともに、学生の実地教育の場にも活用すべしという主張は面白かった。今の国立大学法人のあり方をさらに一歩進めたような考えだ。神吉秀成が何者かはわからなかったが、あまりに時代の先を行き過ぎて、かえって名を残せなかった人物だったのだろうかと思った。


(参考文献は『福岡市史』明治編、『新修福岡市史』資料編近現代2など)
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Ubuntuを使ってみた

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 初めて買ったパソコンはWindows98SEマシンだった。それ以来、Windows以外のOSを使ったことはなく、ウェブページを見たり、文章を書いたり、写真を整理したりなどの使い方では特に不満を感じることもなかった。個人的な感想だが、Windows2000は特に使い勝手が良かった。ところが、最近になって実に情けない事情により、1台のパソコンにUbuntuというフリーのOSを入れることになった。使い始めたばかりで、偉そうに講釈をたれる段階ではないが、初心者にも非常に操作しやすい設計ではあるものの、意外に重く、非力なパソコンでは使いづらいとも感じた。

 Ubuntuをインストールしたのは、5年以上もメインマシンとして酷使してきた富士通製のLIFEBOOK AH45/Kという機種で、CPUがCore i3 3120Mの2.5GHz、メモリは8GBを登載している。購入当初はWindows8.1、その後、10にアップグレードし、何不自由なく使い続けていたのだが、破損と変色が進んだキーボードを交換したところ、何をしくじったのか全く起動できない状態に陥った。最初は放電すれば元通りになるだろうと甘く見ていたのだが、一向に状況は好転せず、内部の破損を疑わざるを得なくなった。使用してきた歳月を考えて修理をあきらめ、メモリは他のパソコンに流用し、ハードディスクは外付けケースに入れて活用することにした。

 ところがである。起動不能になって約3か月後、空箱同然のマシン内部をもう一度掃除し、試しに電源につないで起動してみたところ、うんともすんとも言わなかったLEDランプが青々と点灯したのである。キツネにつままれた思いでメモリを戻して再度電源ボタンを押すと、今度はBIOSが動き出した。ここで大喜びしてハードディスクを戻し、リカバリディスクで復旧作業を始めたのだが、なんとリカバリディスクの焼き付けにまたも失敗していたことが判明した(過去にVAIOで同じ過ちをしでかしたことがある)。メーカーに頼めば、リカバリディスクを送ってくれる有料サービスはあるが、今の私には安い値段ではないので、Windowsマシンとしての再生をあきらめ、無料のOSを入れた。これが「実に情けない事情」のあらましだ。

 数あるフリーのLinux系OSの中でUbuntuを選んだのは、無知な私でも名前ぐらいは聞いたことがあったという単純な理由だ。現在のところ、操作で困ったことはあまりないが、冒頭に書いたように想像以上に重く、ウェブ閲覧中に盛大にフリーズした時には驚いた。Windowsも、あの懐かしき98SEやMeまでは作業中に画面が固まり、にっちもさっちもいかなくなる時が頻繁にあったが、最近ではほとんどなかったトラブルだ。また、電源ボタンを押してから使用可能になるまでの時間が、意外にかかる。Linux系のOSは昔、スペックの低いパソコンを復活させるための救世主みたいに扱われていたが、少なくとも現行のUbuntuに関しては、インストール推奨要件は一応満たしているAH45/Kの重さを考えると、快適に使用するにはそれなりの性能が必要ということだろう。

 一方で、操作のわかりやすさとともにうれしいのは、セキュリティ問題にあまり気を使わなくてもよいという点だ。OS自体の堅牢さもあるのだろうが、Windowsに比べて利用者が格段に少ないため、わざわざUbuntuなどLinux系をターゲットにしたウイルスを開発する人間がほとんどいない、ということらしい。ただ、念のためファイアウォールは導入した。まだまだそれほど使っているわけではないので、Ubuntuについての感想はこの程度のものだが、月並みながら、これだけのOSを無料で提供してくれているのは本当にありがたい、と思う。
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