糸島の支石墓群を歩く



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 先日、糸島市にある国史跡・志登支石墓群を見学してきた。JR波多江駅から徒歩で行ったのだが、生来の方向音痴のため見事に道を間違え、30~40分ぐらい要した。実際は15分ぐらいの距離だろう。この日はもう1か所、同じ市内の新町支石墓群も巡る予定だったのだが、汗びっしょりになったので後日に回した。本当は新町の方が本命だったのだが…。

 支石墓とは、遺体を埋葬した上に石を卓状に組み上げた弥生時代の墓だ(構造は下の写真参照)。朝鮮半島から伝わった墓制だというが、糸島地方やお隣の唐津など九州北西部のごく限られた地域にしか広まらなかった。大きな石を切り出したり、運んだりと相当な労力が必要だからだろうか。この志登支石墓群でも、写真に見える円錐形の山、可也山から石を運んできたとされている。直線距離にして4kmだが、墓が造られた2000数百年前には志登地区と可也山との間は糸島水道で隔てられており、船で運んだのではという見方もある。長方形の大石は優に1tを超えるというだけに、陸路にしろ海路にしろ大事業であったことだろう。

 志登では人骨は見つかっていないが、規模の大きい新町からは14体が出土している。半島系の墓なのに、埋葬されていたのは低顔・低身長の縄文系の特徴を持った人たちで、考古学上の大きな謎の一つになっているとか。西南学院大の高倉洋彰教授は「縄文人が稲作を学ぶために半島に渡り、墓制も持ち帰ってきた」という趣旨の説を唱えていると何かで読んだが、古代から半島と九州との間に密接な交流があったのならば、九州から半島へというルートがあっても良いとは思う。

 志登支石墓群については写真の説明板に紹介があるので、詳しいことは書かないが、1953年に発掘調査が行われるまで、地元では「近付けば、たたりがある」と怖れられていたと聞いた。住民たちが支石墓群をいったいどのような場所と認識し、なぜ、たたりがあると考えたのか、詳しく知りたいところだ。


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