なぜ亀山上皇像なのか

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 福岡県庁のある東公園に亀山上皇と日蓮の像がそびえている。日露戦争が始まった1904年、戦意高揚のため、元寇に際して重要な役割を担った二人の像が建立されたと聞くが、以前から不思議に思っていた。蒙古襲来を予見した日蓮はともかく、時の為政者として元寇に対処したのは執権・北条時宗である。なぜ、時宗像ではなく亀山上皇像なのだろうか、と。

 八尋七郎氏という方が1992年に『県史だより』に書かれた「亀山上皇銅像について」という文章を最近読む機会があり、疑問が解けた。やはり、最初は「馬に乗る時宗」像建立が計画されていたようなのである。それがなぜ上皇像に変わったのか。このあたりの経緯が『福岡県議会史 明治編下巻 附録』に記されており、八尋氏の一文はこれを紹介したものだ。

 県議会史に収録されている原典は福岡日日新聞記者の執筆で、孫引きで申し訳ないが、面白い話なので八尋氏の一文から要約させてもらう。

 元寇記念碑(時宗像)建立の計画が持ち上がったのは安場保和知事(在任期間はウィキペディアによると1886~1892年)の時代だったという。当時の福岡署長だった湯地丈雄が知事に命じられて資金を集めたが、この金を安場知事が第2回衆院選(1892年)での選挙干渉に流用してしまった。選挙干渉とは、明治政府よりの政党を勝利させるため、知事自ら警官隊を動員して立憲自由党や立憲改進党の選挙活動等を妨害したという悪質な事件だ。死者さえ出している。

 この資金流用は、後々福岡県政の負の遺産となったが、安場の10年後に知事を務めた河島醇(在任期間は1902~06年)の時代、日蓮宗の僧侶から願ってもない許可願が出された。それが日蓮像建立のための資金集め。河島知事は許可する代わりに、これ幸いと「像二つ分」の資金集めを持ちかける。ただ、日蓮を迫害した鎌倉幕府の執権では具合が悪いだろうということで、時宗から亀山上皇の像に計画を切り替えたのだという。

 建立を巡って巷間伝わっている話とはずいぶん違い、信ぴょう性については分からないが、少なくとも「なぜ亀山上皇なのか」の疑問には十分に答えてくれる内容だとは思う。


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コメント

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福岡市を抜けると今ひとつ知名度に欠けているのが勿体無いくらい、どちらも精巧で立派な銅像ですよね。台座部分が高いこともあってか本体の規模以上に大きく映り、見上げると一種の崇高さすら感じます。
なぜ亀山上皇なのかと自分も疑問に思ったことがあります。単純に筥崎宮の“敵国降伏”を書いたつながり?と考えていましたが、そういった事情があったのですね。

こんばんは

最終的に亀山上皇が選ばれたのは、ご指摘のように「敵国降伏」祈願の関係でしょうね。
二つの銅像が非常に立派なものであることは同感です。
私の子供時代は東公園にはよく遠足に行き、二つの銅像は身近な存在でしたが、今はどうなのでしょうか。

東公園

亀山上皇は臨済宗南禅寺の開基であり、

特別な存在である。