珍敷塚古墳



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 うきは市の農産物直売所に22日買い物に行った帰り、筑後川左岸に集中する装飾古墳のひとつ珍敷塚古墳(国史跡)に立ち寄ってきた。古墳といっても墳丘はなく、壁画が描かれた石室の壁が一枚が残るだけで、土蔵のような建物で保護されている。一見しただけでは、到底古墳には見えない。古墳横の民家に管理人が常駐しており、声をかければ見学可能と聞いていたが、古い情報だったようで、現在では市教委に事前の予約が必要らしい。残念ながら壁画を目にすることはできなかった。

 壁画の写真は文化庁公表の高松塚古墳関係資料から複写した。文化庁が撮影したのは2009年4月。左側にはゴンドラのような小船と舳先に止まる鳥、中央には巨大な靫(矢を入れる筒)や蕨手文、右側にはヒキガエルなどが描かれているらしいが、かなり不鮮明だ。

 この古墳が見つかったのは1950年。墳丘や石室はそれ以前に取り壊されてすでになく、石壁1枚が埋まっていただけだったという。元朝日新聞記者・玉利勲氏(故人)著の『装飾古墳紀行』(1984、新潮選書)に書かれていたのだが、石材が少ない筑後平野では以前、造園や墓石に使うため古墳の石室を取り壊す行為が当たり前に行われていたという。珍敷塚古墳の壁画が残されたのは、呪術的な絵にさすがの業者も手を出しかねたのか、あるいは石材として使用するには単に絵が邪魔だったためだろうか。

 現在の常識で過去の行為を批判するのは難しいが、珍敷塚古墳の発見後、「珍敷塚の発見時のように騒ぎになったら面倒だ」と急ぎ古墳の取り壊しを行った例もあるというから、文化財破壊の確信犯もいたに違いない。

 珍敷塚古墳は発見から3年後の1953年、国史跡に指定されている(1986年には周辺の3古墳とともに屋形古墳群として追加指定されている)。だが、湿度を一定に保ったガラス室が設けられるなど、しっかりした保存策が講じられたのはずいぶん後年のことで、その間にも乾燥や車の振動などで塗料の剥落が進んだという。玉利氏は『装飾古墳紀行』の中でも壁画の劣化を嘆いているが、同書の口絵に掲載されている写真と比べると、文化庁の写真ではさらに劣化が進んでいるのがわかる。この壁画もいつまで現地保存できることだろうか。

 うきは市教委に確認したところ、古墳見学の予約は吉井歴史民俗資料館。写真撮影については「ご遠慮願っている」という。


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