磐井の墓・岩戸山古墳

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 筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)に、風変わりな句が刻まれた碑があった。

 稲妻や人形が原の魂よばい

 芭蕉の門人、向井去来(蕉門十哲に数えられている)が元禄年間、この古墳を訪れた時に詠んだ句だという。魂よばい(呼ばい)とは、死者の名前を呼び蘇らせようとする呪術的儀礼だ。「人形(にんぎょう・ひとがた)が原」とは、石人・石馬が林立する風景から、古くは岩戸山古墳のある台地がこう呼ばれていたという。稲妻は誰を蘇らせるための魂よばいだったのだろうか。磐井と思いたいところだが、彼の墓所が岩戸山古墳と特定されたのは戦後のことで、江戸時代には石人山古墳(八女市の西側の広川町にある)だと考えられていたようだ。

 最近、福岡の古代史を色々かじっていると、磐井の名によく出会う。例えば、装飾古墳。熊本・菊池川流域が源流だとされるが、磐井の乱(西暦527~8年)後、福岡の筑後川流域にも広がってくる。これ以前に古墳を飾っていた石人・石馬をヤマト政権が憎み、見えない地下部分で独自の葬送様式が広がっていったという学説もあれば、敗戦で筑紫君一族の影響力が薄れ、熊本の集団が勢力を伸ばしてきただけだという説もある。古代の海人族・阿曇族の消長を巡っても、磐井の乱後で二つの説があることを先日取り上げた。いまさらながら、磐井の乱とは北部九州にとって時代を画する大事件だったと思い知らされる。

 私は中高校生の頃、磐井の乱とは、新羅にそそのかされた九州の在地豪族がヤマト王権に対して起こした“反乱”だと習った記憶がある。この頃、ヤマト王権の影響下にあった朝鮮半島諸国を新羅に奪われ、王権側は奪回のための遠征軍派遣を計画していた。新羅はこれを阻むため、磐井に賄賂を贈り、遠征軍の渡海を邪魔させたという話だった。現在では北部九州に一大勢力を築いていた筑紫君一族とヤマト王権、二つの勢力による大戦乱だったとする考え方が支配的のようだ。

 これは磐井に肩入れする地元・福岡特有の見方というわけではなく、例えば、現在の高校日本史の教科書(山川出版『詳説日本史』)にも「大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした。大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、北部九州に屯倉を設けた」と記され、反乱とは表現されていない。この乱以前、北部九州ではヤマト王権の支配権が確立されていなかったとみられるためだろう。

 古墳横にある岩戸山歴史資料館(入館料130円、小中学生70円)の展示資料によると、磐井の乱後も八女丘陵上には大型古墳の造営が続き、王権に存続を許された筑紫国造がなおも大きな勢力を維持したことを示している。丘陵上には全長10km以上にわたって150~300基の古墳があったと考えられるという。150~300とはずいぶんアバウトな数字だが、戦後、多くの古墳が開墾によって破壊され、痕跡が残っていないケースも多いためらしい。現存するのは岩戸山、石人山などの前方後円墳11基をはじめ80基程度のようだ。






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