甘棠館

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 江戸時代、福岡藩には藩士の子弟を教育する藩校が二つあった。東学問所・修猷(しゅうゆう)館と西学問所・甘棠(かんとう)館。このうち修猷館の名は現在も県立高校に受け継がれ、同高校は名門進学校として福岡県内では名を轟かせている。

 一方の甘棠館、高名な儒者・亀井南冥が館長を務めたこともあり、開校当初はライバル修猷館以上の人気を誇ったと伝えられるが、寛政異学の禁や不慮の火災等により、わずか14年で廃校となった。甘棠館がかつてあった福岡市中央区唐人町の小さな路地に、これまた小さな石碑(1枚目の写真)が建っているが、その影の薄さが「悲劇の藩校」の歴史を物語るようでもある。

 甘棠館の歴史については、写真の説明板で簡単に紹介されており、重複は避けるが、廃校後、生徒たちは修猷館に移されたらしい。このためか現在では修猷館高校が、自身の歴史の中に甘棠館をも取り込み、受け継いで行こうとしている。この動きは特に最近になって強まっているように見える。九大で保管されている甘棠館の扁額を、修猷館高校の前館長が“返還”を求めたという話も聞く。正直、修猷館の“いいとこ取り”のようにも思えるが、甘棠館の歴史をきちんと記憶するべき場所があるとすれば、この学校以外にないのも確かだろう。

 説明板の記述について、若干不正確な個所があるようなので、指摘しておきたい。甘棠館で学んだ者の一人として広瀬淡窓の名前が挙がっているが、淡窓は甘棠館廃校後、亀井南冥・昭陽父子が開いた私塾で学んだというのが正確ではないかと思う。淡窓が後に郷里の大分県日田市に開いた咸宜園は日本最大の私塾とされ、儒者という以上に教育者として著名な人物だ。現在の大分県知事・広瀬勝貞氏は子孫に当たるという。

 2枚目の写真は、福岡市中央区地行の浄満寺にある南冥・昭陽父子の墓所。
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