筑前国続風土記が面白い

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 前回取り上げた丸隈山古墳について調べる中で、福岡藩の儒学者・貝原益軒(1630~1714)が著した『筑前国続風土記』を一部参考にした。益軒が晩年、福岡藩領内をくまなく歩いて書き上げた地誌で、活字本を図書館でパラパラめくっただけなのだが、これが意外に面白かった。福岡、博多の町や郡ごとに地勢、産業、地名の由来、歴史、言い伝えなどがコンパクトにまとめられている。福岡の古い物事を調べるにはまたとない本のようだ。

 興味深かったのは、各郡に対する益軒の評価にずいぶん差があることだ。評価が高いのは、現在の朝倉市の一部に当たる上座郡。「國中第一の膏腴(こうゆ=土壌が肥えていること)の地にして、種植の利他所に倍せり。(中略)最上郡なり」と地勢を誉めたうえで、住民についても「民俗質實にして菲薄ならず」と激賞している。

 これと対照的なのが怡土郡(現在の糸島市の一部)。ここも地勢については「田地廣く山川美にして」と好意的なのだが、住民については以下のように相当辛辣だ。「村民に原田家士の子孫多し。田夫といへ共、言語いやしからず。頗世事に馴たり。唯恨らくは、風俗質朴ならず。誠實少なし」(あくまでも『筑前国続風土記』の記述なので、現在お住まいの方はご容赦を)。

 原田氏とは鎌倉時代から戦国時代にかけて糸島地方を治めた一族で、高祖山に城を構えていた。秀吉の九州征伐の際、秀吉か島津か迷った末に島津側に付き、秀吉に所領を没収されている。戦国を生き抜こうとした小大名の有り様としては珍しくないように思えるが、あるいは益軒のジャッジは厳しかったのだろうか。原田氏に対する評価が怡土郡住民に対する評価につながっているようにも思える。

 写真は益軒の墓所がある福岡市中央区今川の金龍寺と益軒像。最近、立派な山門が出来た。この寺は前述の原田氏が創設した寺で、もともとは怡土郡にあった。原田氏が所領を没収された後、寺の存続が危ぶまれるようになり江戸時代に現在地へ移って来たという。元祖・金龍寺も糸島に現存している。
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