中山平次郎と今山遺跡


 福岡市西区の今山に登ってきた。玄武岩からなる標高80m程の小さな山で、山頂付近には江戸・享保年間に創建されたと伝えられる熊野神社があり、麓から長い石段が通じている。本殿の先には東西2ヶ所の展望台があり、東からは今津湾、西からは糸島平野が望める。この山は弥生時代前期後半から中期(約2000~1900年前)、北部九州一円に流通していた太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)の製作地でもあり、山全域が国史跡に指定されている。

 遺跡を発見したのは九州考古学界の祖、九州帝国大医学部の中山平次郎博士(1871~1956)だ。発見は偶然ではない。博士は、太型蛤刃石斧が九州北部各地で出土するのに、製作工房跡が確認されないことに着目、この石器を製作する専門集団がどこかにいたはずだと推理した。今津の元寇防塁(この名称も中山博士の命名だという)調査のため付近を訪れた際、民家で石斧の未完成品をたまたま入手したことがヒントとなり、1923年(大正12年)、この山が製作地だったことを突き止めたという。

 石斧は弥生時代、この地を支配していた伊都国の重要な交易品だったとみられている。重さは1kg程もあり、木を伐採するのに威力を発揮したらしい。稲作の適地が少なかったとされる北部九州だけに、木を伐り、新たな農地を開墾する際に重宝されたのだろう。木々が鬱蒼と茂る山中では、現在でも玄武岩の露頭をところどころ確認できる。山の石を積んだと思われる石垣もあちこちにあった。

 中山博士は京都生まれで、東京帝国大卒。考古学上の功績は、今山遺跡の発見以外にも、鴻臚館があった場所を福岡城跡と正確に特定したこと、「漢委奴國王」の金印出土地を推定したことなど数多く、その偉業は今も称えられている。だが、戦後は厳しい生活を強いられ、貧困の中で没したという。「人情の厚い土地柄」と“自賛”する街だ。福岡を愛し、退官後もこの地にとどまることを望んだ博士を、戦後の混乱期とは言え、九州大なり行政なりが遇することはできなかったのか、残念でならない。
 

DSCF5800.jpg

DSCF5790.jpg



DSCF5755.jpg


より大きな地図で 今山遺跡 を表示
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]