日本最古の戦死者

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 麦秋の糸島半島を歩いて新町支石墓群を見学してきた。弥生時代が始まった頃(約2300年前)の人骨が見つかったことで有名な遺跡で、2000年に国史跡に指定されている。支石墓とは朝鮮半島から伝わったとされる墓制(下図参照)だが、ここに埋葬されていたのは渡来系の弥生人ではなく、低顔・低身長の縄文系の特徴を持つ人々だった。昨年書いた「糸島の支石墓群を歩く」の中で、「縄文人が稲作を学ぶために半島に渡り、墓制も持ち帰ってきた」という高倉洋彰・西南学院大教授の説を紹介したが、弥生時代がどのようにして幕を開けたのか、まだまだ解明すべき謎は多いらしい。

 新町支石墓群が位置するのは、糸島市教委発行の小冊子によると「糸島半島の中央部にそびえる別名『糸島富士』で名高い可也山の西側、引津湾に面した海岸砂丘上」。引津湾は古代、博多湾と同じく半島との交流拠点だったと言われる。九州帝国大の中山平次郎博士は大正時代からこの遺跡に注目していたというが、本格的な発掘調査が行われたのは1982年が最初だった。調査では計57基の支石墓、甕棺墓が確認され、うち半分の墓は内部まで発掘が行われた。残る半分は手付かずのままま保存されているという。

 人骨は計14体が出土しているが、中でも注目されるのは「日本最古の戦死者」と呼ばれる熟年男性の人骨だろう。左大腿骨に石の鏃が刺さった状態で埋葬されていたためだが、注目される理由はそれだけではない。彼の遺骨の下には人頭大の穴があり、ここから少年の歯が見つかっているのだ。熟年男性は部族間の戦争の犠牲者で、彼の復讐のため、相手部族の少年の首を切り、一緒に埋めたのではないかと研究者らはみている。弥生時代は幕開けの時から、陰惨な戦乱の世界だったようだ。

 遺跡上には現在、展示館が建てられ、内部には発掘現場の一部がそのまま保存・展示されている。支石墓の構造が良くわかるが、見学路が地面と同じ高さのため、墓の隅々まで見えないのがやや難点だ。また、墓の内部に人骨は置かれていない。福岡市の金隈遺跡のように特殊加工された本物までは望まないが、せめてレプリカでもあれば、もっと生々しい展示施設になるのにと少し残念に思った。展示館は月曜休館、入場無料。係員等は常駐していない。
 

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