斉明天皇と神籠石

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 5市合併で1963年に北九州市が誕生した際、それに先立ち新市名を一般公募したところ、最も多かったのが「西京市」だったことは良く知られている。だが、この地域が都だったことは一度たりともない。それどころか、西京というのは室町時代の山口の異名だ。市名選考に当たった委員会が1位を退け、次点の北九州を選んだのは良識ある判断だったと思う。当時の新聞は、西京市を選ばなかった理由を「京都、東京に遠慮して」と報じたらしいが、大きな見当違いだろう。

 福岡県全体を対象に広げれば、斉明天皇の時代に都、正確には宮が置かれたことがある。7世紀、同天皇が百済復興のため朝鮮半島出兵を企図、その前線基地として造営したと言われる朝倉橘広庭宮だ。正確な場所は特定されていないが、現在の福岡県朝倉市にあったと推定されている。江戸時代初期の儒学者、貝原益軒は『筑前国続風土記』の中で、須川村(現在の朝倉市須川地区)に宮があったという村人の伝承を紹介したうえで、昔は一帯に多くの礎石があったと記している。少なくとも昭和初期までは橘広庭宮の遺構と信じられていたようで、九州大の鏡山猛氏らにより発掘調査も行われている。結果としてこの礎石は奈良時代の廃寺跡だったようだ。

 斉明天皇は661年7月、この宮で崩じているが、葬儀の模様を朝倉山上から大きな笠を着た鬼がのぞき見ていた(「是夕於朝倉山上、有鬼、着大笠、臨視喪儀。衆皆嗟怪」)と『日本書紀』は記している。朝倉山とは、現在の麻底良山(「底」の字で代用したが、正確にはまだれが不要。氏の下に横棒)だと言われている。麻底良は「までら」と読み、標高294m。宮の所在地は不明とは言え、斉明天皇に関する伝承が残る場所はこの山の周辺に多い。

 葬儀をのぞき見ていた鬼とは一体何者なのだろうか。鬼と言っても、角を生やした妖怪のイメージが出来上がるのは平安時代以降のことで、飛鳥時代、あるいは『日本書紀』が編まれた奈良時代は人知を超える事象全般を指したという。山の上に傘雲(レンズ雲)がかかっていたのを「大きな笠を着た鬼」と表現したという説があり、個人的には説得力を感じているが、怪異な要素が消え、面白みはなくなってしまう。

 現在の朝倉には、斉明天皇に直接関係する遺構は何も残っていないが、麻底良山の東側にある「杷木神籠石」(写真)との関連を指摘する人はいる。神籠石とは記紀に記録されていない古代山城の遺構とされ、北部九州・瀬戸内地方だけに十数ヵ所が残る。築造の時期・目的等はわかっていないが、最近『新修志摩町史』(2009年3月発行)を読んでいて面白い記述に行き当たった。古代山城研究会の瓜生秀文氏という方が書かれていたのだが、神籠石とは朝倉橘広庭宮防衛のために築造されたものだというのだ。

 説の正否を自分なりに考えてみようと思い、九州北部に残る国史跡の神籠石の位置を地図に落としてみた。なぜか多数の神籠石が高速道路(九州自動車道、大分・長崎道)の沿線にあった。福岡県上毛町の唐原山城跡のように建設中の高速道路に面したものさえある(唐原山城跡の下を東九州道のトンネルが通る)。

 杷木をはじめ多くの神籠石が交通の要衝に置かれているのは確かだろうが、ルート決定には政治的思惑も加味されているはずの現代の高速道路とこうも一致するものなのか。不思議に思ったが、古代の官道・西海道のルートが現代の高速道路と驚く程一致するらしい(『続古代の道』武部健一、吉川弘文館、2005)。西海道が整備されたのは奈良時代(8世紀)とされ、神籠石の建造はこれよりも先だったと考えられる。だとしたら、防衛拠点である神籠石を結ぶ形で西海道が整備されたのではないか。そう考えれば、偶然の一致に納得がいく。

 なお、神籠石が朝倉を囲むように配置されているのは間違いないように思える。いわゆる考古学や歴史学の研究者たちが瓜生氏の説について真面目に取り上げた形跡は(私の知る限りでは)ないようだが、真剣に検討すべき価値はあるように思う。(昨年6月の記事を加筆修正した)



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