もらい子殺し


 終戦直後まで、国内ではもらい子殺しが度々起きていた。100人以上の赤ん坊を殺したのではないかと言われる事件さえあり、この事件は恐らく国内最大規模の大量殺人事件ということになるだろう。

 頻発した原因は他のサイトで紹介されているので詳細は省くが、妊娠中絶が非合法だったため、社会的・経済的理由で育てられない子供も生まざるを得なかった。そういった赤ん坊を決して安くはない手数料を受け取って引き取り、子供が欲しい家庭に斡旋するビジネスがあった。これに目を付け、最初から手数料をだまし取るのが狙いの輩が次々に現れたということのようだ。

 数あるもらい子殺し事件の中で、特に有名なのは戦後に発覚した東京・新宿区の寿産院事件だろう。犠牲者100人以上と疑われているのは他でもないこの事件のことで、発覚翌日1948年1月17日の朝日新聞には「死亡百六十九名」の見出しが躍っている。

 犠牲者数については諸説あるようだが、求刑の際に検察側が示した数は84人。にもかかわらず主犯格の女への求刑は懲役15年。これでも十分不可解だが、判決に至っては1審が懲役8年、確定判決となった東京高裁判決は4年に過ぎない。女が公判段階で殺意否認に転じ、裁判所も殺人ではなく業務上過失致死と認定したためのようだが、それにしても量刑が不当に軽過ぎるように思える。望まれない子供の命の重さはその程度だったということだろうか。
 
 こういったもらい子殺しが起きたのは東京をはじめ、主に人口が多い都会だが、明治時代に九州・佐賀でも著名な事件が起きている。百武栄一、タカ夫婦と行商人の松本ツゲの3人が共謀して起こした事件で、松本が各地を回って赤ん坊を集め、夫婦が次々に殺害していったらしい。

 1910年(明治43年)6月8日の判決を伝える記事によると、百武夫婦が13人のもらい子を「干し殺した」と判決は断罪している。「干し殺す」という表現が大時代的で恐ろしいが、餓死させたということだ。一説には犠牲者は60人を超えるというから、立件できた数は少なかったようだが、それでも夫婦には死刑、従犯の松本には懲役12年の判決が下っている。明治時代の方が戦後の混乱期よりもよほどまっとうな判断を下している。
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