なぜ、また川辺里?

DSCF5973.jpg

 日本最古の「戸籍」木簡が福岡県太宰府市の遺跡から出土したとのニュースが先ごろ話題になった。用語から西暦685年から701年に作成されたとみられるらしい。不思議なのは、その戸籍がまたも嶋評川辺里(しまのこおり・かわべり、又はかわべのさと)のものなのである。この木簡の発見以前、最古の戸籍とされていたのは正倉院伝来品で、大宝二年(702年)作成の「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(写真下、志摩歴史資料館展示の複製)だ。表記こそ異なるが、まったく同一の地域。単なる偶然の一致だろうが、出来すぎた話である。

 嶋郡は現在の糸島市と福岡市西区の一部に当たる。大宝二年川辺里の戸籍には、郡の長官・肥君猪手の一族124人の名前があり、長官が住んでいた以上はここに郡衙があったとみられている。場所は特定されていないが、これまでは旧志摩町の中心部一帯と考えられてきた。これにちなみ、志摩中央公園には「川邊の里」の愛称が付けられている。しかし、最近になって東側に隣接する福岡市西区の桑原・元岡遺跡群から官衙的な遺構が相次いで発見され、むしろこちらを有力視する研究者が増えているらしい。

 桑原・元岡遺跡群は、九州大の統合移転に伴い発掘調査が続いている。昨年は庚寅の年号刻んだ大刀が7世紀の古墳から出土し、大きなニュースとなった。この遺跡群からはこれまでに50基を超える製鉄炉の遺構が見つかっており、出土した木簡などから8世紀(つまり大宝二年戸籍の時代)には大規模な官営製鉄所があったとみられている。郡長官が率いる肥君一族とは製鉄集団だったとも考えられているようだ。1901年(明治34年)操業開始の官営八幡製鉄所が日本の近代化を支えたことは良く知られているが、古代の福岡県も製鉄によってヤマト王権に貢献していたとしたら面白い。王権にとっても極めて重要な地域だったことだろう。

 ところで、川辺里と言うからには川のほとりの場所だと思うが、旧志摩町にしても桑原・元岡地区にしても現在は農業用水路程度の小さな川が流れているぐらいで、「川辺里」の名前には似つかわしくないように思う。ただ、古代の糸島半島は、西側にある船越湾、東側にある今津湾がそれぞれ大きく内陸に入り込み、今とはずいぶん地形が違っていたようだ。江戸時代、湾や河口を埋め立て新田開発を進めた結果が現在の地形で、飛鳥時代には、あるいはもっと大きな川が存在していたのかもしれない。


DSCF5978.jpg


より大きな地図で 川辺里 を表示
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]