洞海湾にあった中ノ島

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 北九州市の洞海湾をまたぐ若戸大橋が今年9月で開通50周年を迎えるという。今では自動車専用橋だが、私は子供の頃、橋を歩いて渡った記憶がある。多分、小学校の社会科見学の時だったと思うのだが、橋から見下ろしたはずの洞海湾の景色などまったく覚えておらず、非常にあやふやだ。あるいは記憶違いかとも思い、橋の歴史を調べてみたが、1982年5月までは確かに歩道が設置されていた。年代的にはちゃんと一致している。

 私は子供の頃から高所恐怖症で、吊り橋などは大の苦手である。なのに、九重夢大吊橋(大分県九重町、高さ173m)や照葉大吊橋(宮崎県綾町、同142m)など、九州内の主だった吊り橋は全て踏破しているという大バカ者だ。ただし、私の吊り橋の歩き方は、正面だけを見据えてロボットのようにぎくしゃく手足を動かすというスタイルで、怖いから周囲の景色などまったく見ていない。だから、恐怖の体験の割には記憶が希薄である。若戸大橋を渡った時も同じような歩き方をしていたのだろうか。

 ところで、本題だが、橋の歴史を調べる中で、洞海湾の入り口付近に昭和初期まで、中ノ島という島があったことを初めて知った。北九州市民、とりわけ若松・戸畑区民にとっては周知の事実かもしれないが、あの狭い湾に島が存在していたなど今でも信じ難い。東西180m、南北90m程の小島だったようだが、江戸時代には一国一城令で取り壊されるまで黒田藩の出城「若松城」が置かれ、削り取られる直前までは複数の造船所と70軒近い民家があったという。

 島が削り取られることになったのは、石炭積み出しで洞海湾を行き交う船が増え、海上交通の邪魔者となったためだが、若戸大橋の建設と同じく、多数の犠牲者を出した若戸渡船の転覆事故もきっかけの一つだったようだ。

 事故が起きたのは1930年(昭和5年)4月2日。この日は若松で祭りが開かれ、大勢の人出でにぎわっていた。転覆した「第一わかと丸」には定員(110人)を大きく超える178人が乗り込み、若松側を出港した時から船は大きく傾いていたという。船の航路上に中ノ島があり、これを避けるためにいつも通り舵を切ったところ、船はバランスを崩し、あっという間に転覆。73人が犠牲となる大惨事となった(犠牲者数に関しては72人説もあるが、北九州市公式サイトにある数字に従った)。

 明治時代後期、筑豊で掘り出される石炭は全国産炭量の40%以上を占めるようになり、福岡県は大正時代以降、洞海湾の整備拡充(当時の用語では「洞海湾修築」)を国に繰り返し訴えていた。しかし、洞海湾を田舎港湾としか見ていなかった国側の反応は最初、極めて冷たいものだったという。港の整備や浚渫だけでなく、中ノ島の削り取りも必要とあり、巨額の整備費が見込まれたことも国が渋った一因だったようだ。

 転覆事故をきっかけに、若松―戸畑を海底トンネルで結ぶ構想が持ち上がったが、洞海湾修築についても国が重い腰を上げた。事故から10年後の1940年には、中ノ島は当時の内務省によって跡形もなく削り取られている。土砂は湾内の港湾整備に活用されたという。一方の海底トンネルは戦争によって頓挫するが、戦後、若戸大橋に姿を変えてようやく実現する。戦前にトンネルが構想されたのは橋を建設する技術がなかったためだろうが、「トンネル掘りならば石炭採掘で慣れている」という理由もあったと聞いた。福岡らしい話だ。
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