西部軍司令部跡

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 福岡県筑紫野市山家の宮地岳山麓に太平洋戦争末期、西部軍司令部の巨大な地下壕陣地が建設され、本土決戦に備えていたという。地下壕は南北2ヶ所に掘られ、両者とも現存しているらしいが、北壕は旭化成工場、南壕は採石場の敷地内にあり、いずれも部外者立ち入り禁止。一般人が目に出来るのは、司令部跡に通じる道沿いにある「西部軍司令部跡洞窟」と刻まれた小さな石碑(写真上)ぐらいだと思っていた。

 ところが、先日読んだ九州の戦争遺跡を紹介した本の中に、辛うじてながら南壕が見える場所があると書かれていた。採石場入り口の左側に公園があり、この公園から細い道をたどっていくと行き着くという。早速、この情報に従い、現地に行ってきたのだが、残念ながら壕を目にすることは出来なかった。本に書かれた情報が間違いだったというわけではなく、どうも季節が悪かったようだ。

 まず「公園」と書かれていた場所は、完全に草むら状態。草は腰の高さ近くまで生い茂り、最初は場所を間違ったかと思った程だが、しばらく進むと朽ち果てた看板があり、確かに遊園と書かれていた。どこが管理しているか知らないが、この状態で誰が遊べるものだろうか。続いて、くもの巣に悩ませられながら杉木立を進み、採石場の敷地が見渡せる場所に行き着いたのだが、ここでも生い茂った草や木々に視界を遮られた。草木が枯れる頃に再チャレンジする以外にないようだ。

 地下壕陣地の存在は軍の極秘事項だったこともあり、資料自体もあまり残っていないらしいが、『筑紫野市史 昭和編』(1999年3月発行)によると、北壕、南壕ともに平行に掘られた3本の幹線トンネルからなり、さらにこれらはそれぞれ3本の連絡壕で結ばれていたという。幹線トンネルの奥行きは北壕が150m、南壕が200m。工事を請け負ったのは関門鉄道トンネルを手掛けた熊谷組で、1945年(昭和20年)1月から、筑豊炭田の炭鉱労働者らを大量投入して突貫工事を進めたが、計画の半分が完成したところで終戦を迎えたらしい。ただし、1945年6月の福岡大空襲以降、軍司令部は実際にこの地下壕に移り、軍司令官の横山勇中将以下、600人余の将兵が駐屯していたという。

 横山中将は終戦後、撃墜したB29の搭乗員を殺害した二つの事件(九州大での生体解剖事件と油山事件)の責任を問われ、死刑判決を受けている。その後、マッカーサーによる恩赦で終身刑に減刑されたが、1952年、収監先の巣鴨拘置所で死亡した。当時の新聞によると、死因は就寝中の心臓マヒ。64歳。葬儀は杉並のカトリック修道院で行われ、死亡により公職追放は解除されている。

 筑紫野市山家は、江戸時代に長崎街道の宿場町があったことで知られる歴史ある土地だが、戦争中の暗い歴史も刻まれている。その遺構がせっかく残っているのに、一般人が気軽に目に出来ないのが残念だ。下の壕の写真は筑紫野市歴史博物館のリーフレット『ちくしの散歩』から転載させていただいた。


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