西新の防塁を築いたのは?



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 前回に続いて元寇絡みの話である。福岡市早良区西新に「防塁前」というバス停がある。路面電車が走っていた頃は電停もあった。言うまでもなく元寇防塁にちなんだ名前で、この地では古くからその存在が知られていた。近年も西南学院大の校舎新築の際、土塁を伴った特殊な防塁が新たに出土し、一部が校舎内に移築保存されている(写真)。

 元寇防塁は第一次の元寇「文永の役」(1274年)後の1276年(建治2年)、再度の元軍博多上陸を防ぐため、幕府が九州各国に命じて博多湾沿岸に築かせたものだ。総延長は推定で約20km。工事は8地区に分けられ、各国が分担したと伝えられるが、その分担は東から順に香椎は豊後、箱崎は薩摩、博多は筑前・筑後、姪浜は肥前、生の松原は肥後、今宿は豊前、今津は日向・大隅だったと言われる(上の地図参照。赤の実線は防塁が残っている個所で、点線は想定個所。クリックで拡大)。

 ところが、「防塁」の名前が残る西新地区の担当は今に至るもわかっていない。史料がないことに加え、工事を担当する九州の国はほかに残っていないからだ。

 いくつか説はある。ひとつは九州九ヶ国が共同で西新地区を担当したというもので、貝原益軒の『筑前国続風土記』がこの説の端緒となっている。早良郡紅葉松原(現在の西新地区)北側の海辺に土塁があり、地中には所々石が埋まっているが、その石には「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向杯と國の名を刻み付たり」と益軒は書き記している。

 現在において、現実に国名が刻まれた石は見つかっているわけではないが、九ヶ国共同説を唱える人は、防塁の「模範工事」が西新地区で行われたという考えらしい。中世博多の権威、川添昭二・九州大名誉教授も史料がない以上、共同説を「まったく否定はできない」という立場のようだ。ただし、積極的に肯定されているわけではない。

 ほかには筑後説がある。「筑前は博多前浜、筑後は博多庄浜」と分担を記した文献があり、筑後は筑前と共に博多の防塁を築いたというのが定説らしい。この筑後説は1970年に福岡市教委が発行した『西新元寇防塁発掘調査概報』の中で、市教委担当者が提唱しているのだが、各国の分担範囲は概ね3km程度だが、西新地区(愛宕山から荒津崎まで)も博多の沿岸線もちょうど3kmほど。また、中心部を地元が、中心部から離れた地域を遠国が担当したことを踏まえると、「西新は筑後の分担と想定し得る」というわけだ。

 私は筑後説になんとなく説得力を感じている。平安時代に編まれた『延喜式』では、筑前・筑後の国力は「上国」に分類されている。二ヶ国で今津を担当した日向・大隅はいずれも一段国力が劣る「中国」だ。いくら大事な博多とは言え、上国2ヶ国が共同で行ったとは疑問に思えるからだ。また、当時の西新地区は無人の土地だったらしいが、文永の役の際にはここから元軍が上陸、一帯が主戦場となるなど戦略的には極めて重要な土地だった。だとしたら、博多を地元の筑前が担当し、西新を準地元と言うべき筑後が担当するのは理にかなっているように思える。

 西新地区の防塁は、全体を石で築いた今津などと違い、内部は粘土や砂で埋められ、石材が節約されている(2枚目の写真参照)。ただし、他地区では見られない基礎工事が行われるなど構造的にはきちんとしたものだったようだ。西南学院で新たに見つかった土塁については、石塁よりも前に造られたことが判明しており、市教委は「土塁が本来の元寇防塁で、石塁は当初の防塁の前面に新たに改良されたもの」(2002年『西新地区元寇防塁発掘調査報告書』)とみている。現実に敵が攻め寄せてきたら、かなり守りにくそうな構造ではあるが。
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