小倉で黒田二十四騎

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 ずいぶん昔、北九州市に住んでいた時の話だ。たまたま市長選があり、当時の現職候補の決起集会に参加したことがある。“大人の事情”と言うか、早い話が事実上の業務命令で仕方なく出ていたので、集会の中身はほとんど覚えていないのだが、ひとつだけ印象に残っていることがある。景気づけで鎧武者姿の支持者たちがステージ上に並び、「エイエイオー!」と気勢を上げたのだが、このパフォーマンスのタイトルが確か「黒田二十四騎出陣」だったのだ。

 黒田二十四騎とは、黒田官兵衛孝高(如水)に仕えた後藤又兵衛、母里太兵衛ら24人の精鋭たちのこと。北九州市の西半分は江戸時代、福岡藩領だったのだから、黒田二十四騎が出てきても別に不思議ではないのかも知れないが、この時はかなり違和感を持った。決起集会が開かれていたのは、小倉城近くに当時あった小倉市民会館。小倉城は言うまでもなく豊前15万石を治めた小笠原藩の居城だ。「小笠原のお膝元で黒田武士に扮したパフォーマンスをするとは」と不思議に思ったのだ。

 ところが、これには歴史的な理由があった。小笠原藩は幕末の長州との戦争(1866年の第二次長州征伐時のいわゆる小倉戦争)の際、戦局が不利と見るや自ら小倉城に火を放ち、領民を見捨てて香春に撤退している。領民はこれを深く恨み、小倉の一部年配者の間では現在に至るも小笠原の名前は忌避されているらしいのだ。戊辰戦争での苦難を記憶する会津の例を見ても、あり得ない話ではないと思う。

 同じ県内にある二つの政令市、福岡市と北九州市はライバル関係にあることもあって、市民や行政同士はすこぶる仲が悪いと言われる。北九州、とりわけ小倉の人間にとって、福岡藩主だった黒田家は親近感を抱く存在ではないと思うのだが、小倉を捨てた旧主・小笠原家よりはマシということなのだろう。市長選の決起大会に、鎧武者のパフォーマンスが必要なのかという根本的疑問はここでは措いておく。

 翻って、福岡と黒田家の関係はどうなのだろうか。福岡藩も明治維新に乗り遅れたうえ、明治新政府下では藩ぐるみで贋札事件を起こすなど幕末以降の歩みは失点続きだ。贋札事件の責任を問われ、最後の12代藩主長知は廃藩置県を待たずに事実上福岡を追放されてもいる。しかし、黒田家はその後、いったんは廃校となった旧藩校・修猷館の再興や黒田奨学会の設立で近代以降の福岡の教育(正確には旧藩士子弟の教育)に大きく貢献している。その点では、福岡と黒田家とのつながりは現在でも深い。

 写真は、福岡市博多区千代にある黒田家の菩提寺、崇福寺の山門と、巨大な石塔が並ぶ同家の墓所。昨年まで、一般の墓地と黒田家墓所を隔てる藤水門(下の写真)が閉じられ、普段は立ち入ることが出来なかったが、今年に入って午前9時~午後5時は開放されている。この墓所が1950年に改装された際、4代藩主・綱政のミイラが発見され、調査の後、再びこの墓所に眠っている。ミイラの話は別の機会に書きたい。


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