享保の飢饉の餓死者数

DSCF7543.jpg

 10日は数日来の寒波が緩み好天にも恵まれたので、飢人地蔵が祀られている2ヶ所の寺を散歩がてらめぐってきた。飢人地蔵とは享保17年(1732年)に西日本を襲った大飢饉の餓死者を弔ったもので、大休(現在の中央区南公園)にある飢人地蔵の話を過去にも取り上げたことがある(
「大休と飢人地蔵」)。飢饉の原因は、中国南部で大発生したウンカの大群がジェット気流に乗って日本を襲い、稲を食い荒らしたためだと言われている。まるで昨今のPM2.5による越境汚染である。

 10日に訪ねた寺は中央区地行の円徳寺と早良区祖原の顕乗寺。両者とも浄土真宗の寺だが、これは偶然ではなく、飢人地蔵や供養塔が建立されている寺は圧倒的にこの宗派の寺が多いという。浄土真宗が広まったのは支配階級ではなく、いわゆる庶民の間で、享保の飢饉で犠牲になったのは大半が庶民だったためだ。福岡藩に限れば、武士の餓死者はゼロだったとも伝えられている。

 その福岡藩内の犠牲者数は、1,000人から領民の約3分の1に当たる10万人まで諸説あるが、『福岡県史 通史編 福岡藩(二)』に詳細な考察がある。一部を紹介すると、享保11年には320,215人だった藩内人口が、飢饉2年後の享保19年3月に行われた宗旨改めの時には253,852人にまで激減しているという。差し引き66,363人。「福岡藩では全人口の約二〇%にあたる六万人から七万人が飢饉によって死亡したと考えてまずまちがいないものと思われる」と『福岡県史』は記している。10万人にはいかなくとも、それに迫る犠牲者があったということだろう。

 では、1,000人というあまりに少ない死者数はどこから出てきたのか。これは福岡藩が幕府に報告した数字だという。膨大な餓死者数を正直に報告して、幕府に「政治が悪い」と責められるのを恐れて虚偽の数字を伝えたと言われており、他藩も同様だったらしい。各藩から報告が上がった死者数をまとめたのが、享保の飢饉に関する幕府の行政記録とも言える『虫附損毛留書』で、これには全国の死者数は12,000人と記されている。

 ウィキペディアには恐らくこの記録をもとに、享保の飢饉による全国の餓死者を「12,000人にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)」と書かれているが、上記の事情を踏まえれば、『虫附損毛留書』の信頼性は低い。カッコ内に記されている『徳川実紀』の方が実態に近いだろう。

 享保の飢饉時、福岡藩を治めていたのは6代藩主・継高(1703~75)。2代・忠之以降の歴代黒田藩主の中では「名君」と言われる数少ない存在だが、武士階級の餓死者はいないというのに、数万人単位の領民を死なせている。幕府廻米の多くを人数的には圧倒的に少ない藩士に回したとされ、ある意味確信犯だろう。特権階級や軍部だけは飢えない、どこかの国を思わせる。このような為政者を果たして名君と呼べるのだろうか。写真は上が円徳寺の地蔵で、この寺では「おにぎり地蔵」と呼ばれている。下が顕乗寺の飢人地蔵と説明板。


DSCF7515.jpg

DSCF7519.jpg
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]