古墳の石材再利用

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 福岡市内には石室が跡形もなく破壊された古墳が多いらしい。犯人は墓泥棒や、筑後平野のように石材業者(「珍敷塚古墳」参照)ではない。筑前藩主の黒田家だと言われている。1601~07年(慶長6~12年)に福岡城を築いた際、近隣にあった古墳を片端から壊し、石室の石を石垣に転用したのだという。現在から見れば、とんでもない文化財破壊行為だが、黒田藩にとっては相当の経費節減になったことだろう。

 写真は南区にある大平寺古墳群の6号墳だ。入り口が開いた横穴式石室の奥に2体の石仏が安置されおり、別名「大平寺の穴観音」とも呼ばれている。この古墳群には古墳時代後期に築造されたとみられる小規模な円墳7基があるが、中には墳丘が大きく掘り返され、無残な状態をさらしている古墳もある。これも黒田藩が石材を抜き取った跡なのだろう。近隣の柏原地区にも江戸時代以前は数多くの石室(盗掘された古墳)が存在し、「百穴」とも呼ばれていたらしいが、多くが黒田藩によって取り崩されたという。

 6号墳が辛うじて残ったのは、恐らく江戸時代以前から穴観音として祭られ、さすがの黒田藩も手が出せなかったためではないだろうか。似たような例が同じ南区の寺塚にある。黒田藩成立以前はここにも多数の古墳があったと伝えられているが、現在残るのは興宗寺境内の寺塚穴観音古墳だけだ。この古墳にも石室奥の壁に3体の仏像が彫られている。仏像が彫られた時期は不明だが、古くから信仰の対象となってきたという。

 大平寺古墳群は全体的に保存状態が悪いためか、市の史跡にさえ指定されておらず、調査も行われていないらしい。このため被葬者をはじめ詳しいことは一切不明だが、近隣の遺跡からは製鉄関連の遺構が見つかっているという。あるいはこの古墳群も西区の桑原・元岡地区と同様、製鉄集団の墓なのだろうか。

 史跡にこそ指定されてはいないが、古墳群のある森が「大平寺緑地」という緑地保存地区となっており、開発からは完全に守られている。大平寺の穴観音は現在も地域住民によって大切にされているようで、石室内部は非常にきれいな状態だった。

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