志免炭鉱の黒歴史

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 3年前、「志免炭鉱の竪坑櫓」と題した記事の中で、行政側や古くからの住民たちが竪坑櫓を“負の歴史”の象徴ととらえ、保存に消極的だったことを取り上げた。負の歴史とは、主には炭鉱の払い下げを巡り労使が激しく争った「志免闘争」を指すのだと思う。流血の乱闘騒ぎや、“裏切った”従業員を労働組合が拉致監禁する事件さえ起き、負の歴史と言うより“黒歴史”と呼んだ方が適切なぐらいだ。櫓を毛嫌いする町民がいるのも無理からぬことと思える。

 志免炭鉱の歴史を簡単に振り返っておくと、海軍炭鉱として軍艦用の石炭採掘が始まったのが1889年(明治22年)。高さ約48㍍の竪坑櫓は1943年(昭和18年)に完成している。戦後は旧国鉄に移管され、SL用の石炭を出炭していた。つまり拉致事件を起こした労働組合とは、あの悪名高き国労なのである。志免炭鉱の従業員が加盟する国労志免支部は最盛期、3,200人もの組合員を抱える巨大組織であり、その好戦的な性格により国労内でも“関東軍”的存在だったという。

 戦後復興を担った志免炭鉱だが、1950年代に入ると安価な海外炭の輸入が急増し、毎年数億円単位の巨額赤字を出していたという。この時代に数億円単位の赤字なのだから、尋常な状況ではない。炭鉱払い下げは国鉄の合理化策の一環として決まったものだが、これに国労側は猛反発。1959年6月には、払い下げ準備のため石炭埋蔵量を調べようとした国鉄調査団を実力阻止し、警官隊と激しく衝突、双方が数十人単位の負傷者を出す流血騒ぎさえ起こしている。

 冒頭に書いた拉致監禁事件とは、国鉄側との条件闘争に方針転換した一部労組員を国労側は“裏切り者”と決め付け、転勤先まで押し掛けて志免炭鉱へ連行し、集団リンチまがいの糾弾を行ったというものだ。条件闘争派が転勤を強いられたのも子供までがいじめを受けるなどの陰湿な嫌がらせに耐えかねてのものだが、労組幹部は「裏切り者はどこまでも追いかけて仕事ができないようにしてやる!」と息巻いていたと言われる。到底、正気の沙汰とは思われない。

 志免炭鉱払い下げには、三井、三菱、住友の3社が名乗りを上げていたが、こんな状況に嫌気が差したのか各社とも取り下げ、国鉄側も結局は払い下げを断念する。その意味では闘争は国労側の勝利に終わったわけだが、国労側も合理化案には歩み寄らざるを得なくなった。そこで国鉄当局との間で、炭鉱従業員を希望退職や配転により3分の2に減らす計画案に合意することとなった。

 ところが、国鉄他部門への配転希望者募集が始まると、予定を大幅に超える希望者が殺到した。国労組合員が求めていたのは“志免炭鉱という職場”ではなく親方日の丸に安住する国労組合員という身分だったことがあらわになったのだ。流血の惨事から5年後、国鉄側は炭鉱閉山を国労側に提案するが、もはや国労側に抗う力はなく、1964年6月30日、志免炭鉱は75年の歴史に幕を閉じた。

 巨大な竪坑櫓は一部から厄介者扱いされながらも、あまりの頑丈さ故に簡単に壊すこともできず、2009年には国重要文化財に指定された。私自身は、歴史の生き証人はどんな性質のものであれ残すべきだと考えているので、堂々たる櫓の保存は非常に喜ばしいことと思っている。だから、志免町政が竪坑櫓に対して冷淡だと指摘したことがあるが、背後にある歴史や櫓を嫌う住民が存在することを思えば、行政の立場としては仕方がない部分もあるのだろう。
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