放置される掩体壕

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 宮崎市内を走る一ツ葉有料道路を先日通った際、車窓から掩体壕が見えた。宮崎空港近くの農地のど真ん中。掩体壕とは太平洋戦争中、軍用機を米軍の空襲から守るために造られた分厚いコンクリートの建造物で、戦時中に航空基地があった地域には今も相当数が残っている。宮崎空港の前身は海軍の赤江飛行場。周辺に複数の掩体壕があるのは聞いてはいたが、実物を見るのは初めてだったので、翌日改めて現地に行き、写真を撮ってきた。

 写真の掩体壕があるのは宮崎空港の北側に位置する赤江地区で、ここには戦闘機用とされる小型の壕3基が残っている。また、現地は見ていないが、空港西側の本郷北方・南方地区には一式陸攻など大型機用の壕5基が現存しており、建築会社の倉庫などとして利用されているらしい。これらの壕が造られたのは1944年(昭和19年)。最初に壕の形に土を盛り固めた後、鉄筋を張りコンクリートを流し込み造ったもので、膨大な量の土の運搬には地元住民や旧制中学生らが動員されたという。

 赤江飛行場は戦争末期、特攻機の中継基地、後には出撃基地として利用されており、米軍にとってはやはり目障りな存在だったのだろう。終戦の年の1945年(昭和20年)には6月までの半年間で計12回もの空襲を受けている。基地の隣にあった病院が恐らく兵舎と勘違いされ、爆撃を受ける悲劇も起きたという(『里も村も空襲された―記録・宮崎の空襲(2)』三上謙一郎、鉱脈社、1985)。

 現存する掩体壕がこれらの空襲に耐えたのか、あるいは直撃を免れただけなのかはわからないが、戦後70年近くも原型を保ってきたのだから相当頑丈な代物なのだろう。しかも、少なくとも赤江地区については長年放置され、何一つ保存措置が取られていないのにもかかわらずである。

 大分県宇佐市や福岡県行橋市などでは掩体壕を史跡や文化財に指定し、保存を図っているが、少なくとも市議会の会議録を読む限り、宮崎市にはその考えはないようだ。2005年に保存を求めた市議がいたが、市長の答弁は「調査研究したい」。その後市長が代わり、昨年は別の市議が保存を求める質問を行ったが、この時には市側は質問自体をスルーし、答弁さえ行っていない。赤江に関しては農地の中に掩体壕が鎮座しており、仮に保存を図ったところで、宇佐市のような史跡公園化は現状では難しいとは思うが。
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