別府巡査殺しの謎


 先日、大分県宇佐市に行ってきた。宇佐神宮に参拝し、境内に保存してあるSLクラウス号を見学してきたが、宇佐神宮だけが目当てだったわけではない。同市の四日市地区にあったという防空壕にも行きたかったのだ。だが、下調べが不十分だったこともあり、探し当てることが出来なかった。あるいは、そもそも現在では存在さえしていないのかもしれない。

 この防空壕とは今から半世紀以上前の1962年2月17日、別府市内の派出所に勤務していた巡査(以下、G巡査と表記)の絞殺遺体が見つかった場所だ。G巡査はこの6日前、一人で勤務中に派出所から連れ去られていた。遺体は下着姿。制服や拳銃、警察手帳が奪われていたという。不謹慎とは思ったが、数々の謎を残したまま15年後の1977年に時効となった事件のため、現場の一つをこの目で確かめたかったのだ。

 ついに容疑者を突き止められなかった事件だとはいえ、手掛かりがまったくなかったわけではない。それどころか、奪われた拳銃は事件から8年後の1970年12月、兵庫県尼崎市の暴力団幹部射殺事件に使われたことが明らかとなっている。銃弾の線条痕がG巡査の拳銃と一致したのだ。この事件は内紛で、実行犯の男は翌71年1月に逮捕されたが、拳銃は犯行後、海に捨てたと供述。入手ルートについては頑なに口を閉ざしたまま病死した。

 また、射殺犯逮捕の翌月の2月には「別府の暴力団が古井戸で銃の試し打ちをした」との情報提供に基づき、大分県警が古井戸を浚ったところ、数年間水に浸かっていたと思われる銃弾が複数見つかった。このうちの1発がG巡査の拳銃から発射されたものと確認されたという。尼崎と別府の組は同じ山口組系列。G巡査殺害の実行犯は不明とはいえ、彼の拳銃が最終的に暴力団に渡ったことは間違いない。古井戸の銃弾が古かったことを考えれば、先に巡査殺害事件の地元である別府の組が手に入れ、その後何らかの形で尼崎に流れたということになるだろう。

 G巡査殺害事件の起きた1962年初頭、福岡、大分は不穏な空気に包まれていたという。この年の1月、山口組に所属する通称“夜桜銀次”が福岡市内で射殺されたことをきっかけに、山口組と地元・福岡県筑豊地区の暴力団が一触即発の状態となっていたためだ。G巡査殺害の直前、抗争のため福岡市内に集結していた多数の山口組組員が凶器準備集合罪などで福岡県警に逮捕される大騒動さえ起きている。

 警官を襲い拳銃を奪う事件は現在に至るまで全国で数々起きているが、多くは銃を手に入れるのが困難な、組織に属さない犯罪者やガンマニアの犯行であり、暴力団員による犯行はゼロではないが極めて稀なケースだ。暴力団員は、一般人に比べれば比較的容易に闇のルートで銃器を手に入れることができ、警官を襲うというリスクの大きい行為を犯す必要がないからだろう。当時の西日本新聞記事の見出しを追っていくと、大分県警は事件発生当初、暴力団ではなく、白タク行為(無認可タクシー)で稼いでいた一種の“半グレ”集団に狙いを定めていたようでもある。

 一方で、上記のように暴力団抗争が起きる寸前の状況下だっただけに、「対立する暴力団を油断させて襲うため、拳銃ではなく本当は警官の制服を欲しがったのではないか」という推測もあったらしい。

 未解決のまま時効となった事件だから、何が真相であったか知るすべはないが、Wikipediaのこの事件についてのページに異様な記述がある。現在の本文には当たり障りのないことしか書いていないのだが、削除された過去の記述に真犯人を通報したという人物による記載があるのだ(履歴表示やノートで現在も読むことはできる)。

 その内容を要約すると、真犯人は拳銃を暴力団に売りつけ、一儲けしようとたくらんだ4人組で、別府の組と商談がまとまり巡査殺害事件を起こした。この4人組は“当該ページの執筆者本人”が警察に通報し逮捕されたが、全員が拘置所で自殺し事件は迷宮入りしたという。肝心の巡査の名前を間違っており、でたらめと決めつければ済む話だが、妙な生々しさも感じる。事件の謎がまた一つ増えたような気分だ。
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]