加賀山領治の30年


 今年4回目となる死刑執行が12日、行われた。執行されたのは男女2人殺害の藤島光雄(55)と、大阪で2件の強盗殺人を犯した加賀山領治(63)の2人。この前日、宮崎県出身の死刑囚について取り上げたばかりだったが、この加賀山も宮崎県、恐らくは延岡市の出身だ。

 彼が大阪で犯した最初の事件は2000年7月29日未明、中国人女子留学生からバッグをひったくり、取り返そうと追いかけてきた留学生を刺殺したというもの。実はこの事件の30年前、当時20歳だった加賀山は故郷・宮崎で似たような事件を起こしている。幸いこの時は被害者が命を取り留め、加賀山に下った判決は懲役6年に過ぎなかった。

 宮崎での事件とは、1970年9月26日夜、宮崎市繁華街の喫茶店で起こした強盗致傷事件だ。店主の女性にオモチャの拳銃を突き付け現金を奪おうとしたが、悲鳴を上げられ逃走、追いかけてきた店主の夫を刃物で刺し、重傷を負わせている。緊急逮捕後、この約1ヶ月前に小林市で起きた連続強盗・強盗未遂事件も加賀山の犯行であったことが明らかになった。当時の加賀山は延岡市に住み、無職。小林の事件では数千円を奪っただけで、犯行当日にパチンコで使い果たしている。(写真は現在の宮崎市繁華街)

 大阪で事件を起こした時の加賀山も定職に就かず、実母や元交際相手の女性に金を無心してはパチンコや競馬などに興じていたという。1審大阪地裁判決が「無為徒食」と非難した生活ぶりで、いよいよ生活費にも窮すると、ひったくりで金を奪おうとし、逃げるために何のためらいもなく人を刺した。

 宮崎事件で服役した後の加賀山の生活ぶりは、報道では断片的にしかわからないが、宮崎で大工となり、家庭を持っていたとの情報がある。しかし、1990年頃にひとり宮崎を離れ、神奈川、石川県の建築現場や自動車工場で働いた後、1999年に大阪・西成に流れ着いたと言われている。留学生刺殺事件ではまんまと逃げ延び、一時は産廃処理の仕事に就いていたが、この仕事を辞めると再び金に困り、2008年2月、2件目の殺人を犯した。この時もいとも簡単に若い一人の男性の命を奪っている。

 加賀山という男は刑務所と実社会との間を行ったり来たりしていたわけではなく、大阪地裁判決も「前刑の仮釈放後、第1事件に至るまでの25年以上は、特に犯罪行為に及ぶことなく平穏に過ごしていたとうかがわれる」と認めている。しかし、宮崎の事件と大阪で起こした事件を見比べると、30年の時を経ても、加賀山領治という人間の本質は何も変わっていなかったように思える。

 拘置所生活で衣食住足りた加賀山は短歌をたしなむようになったらしく、毎日新聞が何首かを紹介していた。

 <現世では孝行できぬ身となりて 病みたる母に詫びるすべなし>
 <還暦を祝ってくれる人もなく 孤独な我に便りまい込む>

 正直、どの歌もきれいすぎるように感じられ、特に胸に響くものはなかった。死刑囚の作品を“極限の芸術”などともてはやす一部の風潮が私にはわからない。ただ、残された“病みたる母”は哀れだ。

 
     ◇

 大久保清事件が起きた1971年、作家の野坂昭如さんが『ぼくとオオクボ・キヨシとの間』と題した一文を『婦人公論』に寄せている。現在も同様の傾向が見られるが、死刑囚を不可思議なほど持ち上げ、被害者に目を向けない風潮を痛烈に批判する内容もある。一部を抜粋する。

 <(略)李珍宇、金嬉老、永山則夫以後、やたらと文化人なるしろものがしゃしゃり出ては、「内なる差別」や「加害者意識」を売りものにする流行ほど、いやったらしいことはない。それぞれに殺された人間の方はどうなるのか、たとえば、永山に射殺された運転手の気持ちは、ほったらかしにしておいて、殺人者をちやほやしても、しかたないだろう、いい加減に「罪と罰」の呪文から抜け出した方がよろしいだろう。>

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