日教組と戦った父母たち


 先日このブログのアクセス解析を見ていて、「日教組 宮崎県 通山小事件」をキーワードに訪問された方を発見し、かなり驚いてしまった。このキーワードでなぜ、当ブログにたどり着いたかは謎だが、私自身もこの事件を最近知り、関心を持ったところだったからだ。子供たちを放り出してストを強行した日教組教員に父母らが猛反発、彼らの転勤を求め延べ11日間にわたって集団登校拒否を続けたという事件。70年安保の前年、日教組が現在以上に驕り高ぶっていた時代の出来事だ。教育をよそに、政治活動に明け暮れる彼らを一般国民がどう見ていたのか。極端ではあるが、一つの象徴的な事例だと思う。

 発端となったストとは1969年11月13日、総評などの主導で行われた統一ストだ。安保破棄や沖縄即時返還、賃上げなどを訴え、全国で官民合わせ94万人あまりの労組員が参加したと言われている。公務員ストは当時も今も違法であり、行政サイドの切り崩し工作は激しかったという。また、教職員に対しては父母からも「ストに参加しないで、子供たちを見てほしい」という要望が殺到していたと当時の新聞は伝えている。

 しかし、宮崎県下の小中学校では2,567人もの教員がストに参加。事件の舞台となった通山小学校では教職員18人中、校長、教頭と1人の非組合員を除く15人が授業を放棄した。通山小学校は宮崎県中央部の川南町に現在もある小学校で、当時の児童数は414人。多くの学校でストが強行された中で、この学校だけ父母と教員との対立が先鋭化した背景には、一人の男性教員(以下、Wと表記)の存在があったようだ。

 Wは1年生の担任で、この時40歳。当時の新聞では「組合活動に熱心な先生」と評されている。父母側の証言によると、スト前夜には反対するPTA会長宅に「労使の問題に立ち入るな」と電話をかけ、スト当日には校門前に集まっていた父母の中に、嫌がらせをするかのように乗用車を乗り入れようとしたという。Wへの反発から、父母らの抗議行動はエスカレートし、遂には集団登校拒否に至ったらしい。

 日教組本部も事態打開のため(?)副委員長を団長とする5人の調査団を宮崎に派遣したが、その調査団が出した結論とは「集団登校拒否や転勤要求は教育への不当介入」「父母らの今後の言動によっては名誉毀損で訴える」というお粗末極まりないものだった。自ら教育を放棄しておきながら、“教育への不当介入”とはいかにも日教組らしい呆れるばかりの言い分で、当然ながら父母側は態度をさらに硬化。2学期の終業式にも全校児童の1割に満たない35人しか登校しないなど事態は泥沼化し、年を越した。宮崎県教委はオロオロするばかりで、まったく当事者能力を発揮しなかったという。

 父母会には「こんな学校、もうつぶしてしまえ」という強硬論もあったというが、対立が長引くにつれ「子供を犠牲にしている」との批判的な意見も上がるようになり、年明け1970年1月8日の臨時総会で登校拒否については矛を収めることとなった。いったんは教組側が笑う結果となったわけだが、この年の春、どんでん返しが待っていた。Wだけでなくスト参加の15人全員が異動となったのだ。

 優柔不断だった宮崎県教委にしてはずいぶん果断な措置で、教組側は「前代未聞の異動で、父母側の圧力に屈した」と猛反発したという。ただし、日教組はメンツをつぶされた格好であったが、個々の教員にとって実は悪い話ではなかったように思える。教員の権威をかさに傲慢な態度でも許されてきた彼らにしてみれば、父母から総スカンを食らったT小学校の状況は極めて居心地の悪いものだっただろう。口では父母らの転勤要求に反発してみても、「早く通山小学校から出て行きたい」が本音だったのではないだろうか。火薬庫みたいな状況を解消したかった県教委と教組とが裏で手を組み、三文芝居を打ったのではないかとも疑える。

 日教組は1992年の臨時大会で組合規約から「争議行為」を削除し、事実上スト戦術を放棄した。税制上の優遇措置を受けるため法人格取得を目指すに当たり、規約に“違法行為”があったのでは認められないからだという。笑える話だ。写真は日教組の本部があると“言われる”日本教育会館。日教組なる組織は公式サイトにも本部所在地を明らかにしていない。いかにもこの組織らしい。

 【追記】学校名は最初、匿名にしていたが、この事件についての詳細な記述が『川南町史』(1983)にあるのを知り、名を伏せる意味はないと考えて実名に改めた。町史では<昭和四四年一一月、先生の統一スト参加をめぐって本校の父母と組合員教師とが対立し「登校拒否問題」に発展した。これは全国各地に起こった教育現場の混乱を象徴する事件であった>として時系列で経過を紹介している。わざわざ町史に記載するほどの大事件だったということだろう。
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