春日原競馬場の毒餅事件


 この正月に読んだ『20世紀にっぽん殺人事典』(福田洋、社会思想社、2001)に、1938年(昭和13年)に起きた出来事として以下の短い記載があった。

 <六月二〇日 福岡市の競馬場で焼餅を買って食べた十五人が死亡。販売人が逮捕されたが、製造過程で蟻の駆除に使う亜砒酸が混入していたためであった>

 15人の死者も驚きだが、福岡市に競馬場があったことが初耳だった。調べてみると、確かに昭和初期に短期間、現在の南区高宮に福岡競馬場が存在していた。しかし、1938年にはすでに廃止され、代わって競馬場が置かれていたのは当時の筑紫郡春日村。結論から言えば、先の記載は間違いで、毒餅事件が起きたのは春日村にあった春日原競馬場。発生日も20日ではなく、正しくは18日だった。

 春日原競馬場があったのは現在、春日公園(写真)や航空自衛隊春日基地、春日市役所などがある一帯だ。毒餅事件に関しては『春日市史』中巻に「春日原競馬亜比酸焼き餅事件」と題して、比較的詳しい記述があった。以下に一部を引用する。

 <昭和十三年六月十八日の競馬会は、支那事変の時局柄にもかかわらず多くのファンが殺到、馬券売り上げは九万八五七円に達した。
 しかし午後四時ごろ、競馬場内の各所で腹痛を訴え、激しく嘔吐する者が続出した。原因は、場内出店の筒井義雄から買った焼き餅で、県衛生課で調査した結果、猛毒の亜比酸混入による中毒であることが判明した。
 亜比酸の混入原因は、筒井の知人が転居する際に買い取った雑品のなかに「白い粉」が四升余りがあり、それを米粉と思い込み焼き餅を作ったことにある。「白い粉」は白蟻駆除に使用した残余の亜比酸であった>

 餅に猛毒が混入していた事件とあり、和歌山の毒物カレー事件や現在問題となっている冷凍食品への農薬混入を思い浮かべたが、業者の信じられない無知・不注意が引き起こした事件だった。なお『春日市史』には死亡者は15人ではなく17人と記されている。引用文中にあるように日中戦争(支那事変)の時代、九州の片隅で起きた事件ではあったが、それなりに全国の耳目を集めたと思われる。事件翌日6月19日の朝日新聞全国版にはベタ記事ながら<春日原競馬場で同日から始まった競馬の入場者中二十三名が相次いで腹痛を起し猛烈な吐瀉を始めたので大騒ぎとなり…>と第一報が掲載されている。

 春日原競馬場は福岡県畜産組合連合会運営の地方競馬場で、1932年(昭和7年)の開設。コースは一周1,200m、幅27m。場内には競走馬30頭収容の厩舎や馬券売り場、売店などを備え、「地方競馬としては日本一を誇った」(『春日市史』)という。

 『地方競馬年鑑』(帝国馬匹協会編)という資料が国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにあるが、この昭和14年版によると、春日原競馬場では毒餅事件前年の1937年には春秋で計8日間レースが開催され、計12万人もの有料入場者を集めている。現在も地方競馬が存続している岐阜の笠松、兵庫の園田等には及ばないが、全国の地方競馬場の中では比較的盛況の部類だ。ただし、県内には当時、飯塚、久留米にも競馬場があり、春日原を含めた3競馬場の中で最も入場者を集めていたのは飯塚だった。やはり炭鉱景気のためなのだろう。

 春日原競馬場は毒餅事件翌々年の1940年、兵器工場・小倉造兵廠の分場建設のため廃止されている。廃止の理由としてほかに、軍馬養成を優先するという事情もあったらしい。戦時中の1944年に日本ダービーを制したカイソウが、その輝かしい実績にもかかわらず軍馬として徴用され、行方不明となった事実は良く知られている(純粋なサラブレッドではなかったため、血統的評価が低かったらしい)。春日原競馬場を疾走していた無名の競走馬の中にも、戦場に駆り出され、戦火に散った馬たちがきっといたことだろう。


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