天草四郎の城

DSCF9089.jpg

DSCF9107.jpg

 今月、初めて島原城(長崎県島原市)に行ってきた。これまでにも島原市には何度か立ち寄ったことがあり、あの普賢岳噴火災害が続いていた時期に出張したことさえある。43人が犠牲になった1991年6月3日の大火砕流からしばらく後のことで、気は進まなかったが、仕事なので仕方がなかった。しかし、さすがについでに島原観光を楽しもうという気分にはならず、仕事を終えると早々に島原を後にした。記憶違いかもしれないが、島原城にはこの時、災害派遣された自衛隊が駐屯していたのではないだろうか。

 出張での島原滞在は短い時間だったが、それでも火砕流が普賢岳の山腹を走るのを何度か目にした。距離があったこともあり、それほど恐怖を感じたわけではないが、巨大な土煙が猛烈なスピードで斜面を下り落ちていくシーンは強く印象に残っている。地元の人によると、私が見た火砕流はごく小規模なものだったらしいが。

 今回の島原行きは、本当は島原城が目的ではなく、昼食に名物「具雑煮」を食べようというだけの魂胆だった。目当ての飲食店がちょうど城の正面にあったため、良い機会だからと城にも立ち寄っただけなのだが、巨大な石垣や5層の復興天守などを目の当たりにし、大昔に習った島原の乱(1637~1638年)についての記憶を少し呼び覚ますことができた。

 島原城は、松倉重政が1618年から7年がかり(完成までの期間については異説もある)で築いた城で、よく指摘されることだが、その規模はとてもとても4万石程度の大名の居城とは思えない。この城を築くため重政が領民に強いた重税や苦役、さらにキリシタンに対する凄惨な迫害が引き金となって島原の乱が起きたと伝えられ、重政とその後を継いだ勝家は日本史の中でもとりわけ悪名高い父子だ。司馬遼太郎氏は「忌むべき存在」とまで罵倒している。

 島原の乱の際、天草四郎率いる一揆軍は島原城に攻め寄せたが、領民たちの血と汗で築かれた城の防備は固く、落城させることはできなかった。だが、1960年代に復興された現代の城は、天守がキリシタン史料館となっているほか、城内の一角には北村西望氏作の天草四郎像<注>が立ち、時を経て一揆軍が攻略に成功したかのようだ。

 “天草四郎の城”と言えば、ふつうは一揆軍が立て籠もり、そして全滅した原城跡(南島原市)を指すのだろうが、島原城にもその雰囲気が漂い、何となく興味深かった。天草四郎を前面に出すのは観光戦略の面からも間違ってはいないのだろうが、松倉父子などという究極の悪役はなかなか他にはない存在なので、彼らにもっとスポットを当てても良いのではないかとも思った。

 昼食に食べた「具雑煮」も天草四郎がルーツだという。一揆軍が餅を兵糧として原城に持ち込み、それを他の食材と一緒に煮たという言い伝えをもとに江戸後期に初代経営者が考案したと飲食店ではPRしている。真偽はわからない。「名物にうまいものなし」とよく言われるが、具雑煮はうれしい例外だった。

 <注>復興された櫓の一つが北村西望記念館となっており、屋内外に多数の作品が展示されている。長崎市の平和祈念像の作者として有名な北村氏は現在の南島原市出身。天草四郎像はぽっちゃりしすぎていて、巷間伝わっているイメージとはかなり異なる。
関連記事
スポンサーサイト
[Edit]