菊池神社

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 私が短い期間通った中学校の通学路に小ぢんまりした神社があった。小さいながらも立派な社叢があり、それなりに歴史ある神社かもしれないとは思っていたが、当時は由緒を記した説明板などもなく、「菊池神社」という名前しか知らなかった。菊池氏の有名な武将を祭った神社だと教えてくれたのは学生時代の友人で、彼は菊池氏の本拠地だった街の生まれだった。福岡での生活が落ち着くなり、真っ先に菊池神社に参拝してきたそうで、私はそれを聞き、武将の素性に関心を抱くよりも友人の愛郷心の強さに感心してしまった。

 その菊池氏の武将とは鎌倉時代末期、後醍醐天皇に味方して幕府に反旗を翻した菊池武時であることを後に意外な形で知ることになった。福岡市博多区御供所町の地下鉄建設現場から大量の人骨が出土し、これが鎮西探題(幕府の九州統括機関)攻めで敗れた菊池武時軍の骨ではないかと地元で大々的に報道されたのだ。武時が鎮西探題を攻め、敗死したのは1333年(元弘3年)のことで、探題は櫛田神社(福岡市博多区上川端町)近くにあったと推定されている。現在、菊池神社があるのは武時の遺体の一部を埋めたと伝えられる場所(胴塚)で、人骨出土の報道に触れ、伝説に生々しさを感じた。

 最近、神社近くに行く機会があり、久しぶりに境内を歩いてみたのだが、神社自体のたたずまいは変わらないものの、周囲には住宅や学生アパートが建ち並び、社叢の緑は一層目立つ存在になっていた。本殿に通じる石段の登り口には福岡市が設置したと思われる説明板があり、神社の建設者について「明治2年(1869年)、最後の福岡藩主黒田長知が、その忠勤をたたえこの地に社殿を建立しました」と記されていた。神社の歴史が思いのほか新しいのは意外だった。同時に、長知がなぜ、菊池武時に入れ込んだのか不思議に思った。

 黒田長知は津の藤堂藩から婿養子に入った人物で、“最後の藩主”と言いながら、家督を継いだのは神社を建てた明治2年のことだ。どういう理由か、長知は藩主となってすぐに菊池神社建立に取り組んだことになる。長知が個人的に武時を尊敬していた可能性もあるが、下衆の勘繰りをさせてもらえば、明治新政府に媚を売ったのではないかと思える。当時、佐幕派だった黒田藩は新政府から冷遇され、厳しい状況に置かれていたという。武時の探題攻めには私怨が含まれるらしいが、形の上では天皇に忠義を尽くして戦死した人物だ。武時を顕彰することで、点数稼ぎを図ったのではないだろうか。

 <追記>「武時を顕彰することで、点数稼ぎを図ったのではないだろうか。」と最後に書いたが、誤った推測だったと思い、この記事の中で訂正した。
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コメント

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はじめまして

福岡県内在住のwraと申します。どうか、お見知りおきください。

大学の教授から菊池武時の銅塚に関する話を聞き、菊池神社に関心を持っていましたが、なかなか行く機会はありませんでした。比較的新しい神社なんですね。
日本史は専門分野から若干ずれているので、福岡の歴史について分からないことがまだ多いですが、他の記事を拝見しているとどれも参考になるものばかりで、大いに感激しました。

Re: はじめまして

こんな変なブログに訪問いただき、ありがとうございました。
また、過分なお褒めの言葉をいただき、お恥ずかしい限りです。
wra様のブログを拝見させていただきましたが、猫がいきなり登場し、うれしくなりました。
私は飼っているわけではないのですが、近辺にいる野良猫、または放し飼いの猫たちが気になり、このブログで私も彼らを紹介したいと思っていたところでしたので。