菊池一族の首

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 4月7日に書いた「菊池神社」の中で、以前、福岡市博多区御供所町の地下鉄工事現場から大量の人骨が出土し、鎌倉幕府に反旗を翻して敗死した菊池武時の軍勢の骨ではないかと大きく報道されたことを紹介した。当時学生だった私も興味を持ったものだが、「菊池神社」を書いた後になって、報道通り実際に菊池一族の骨だったのだろうかと疑問に思い出した。きちんとした資料がないかと探したところ、図書館にあった『高速鉄道関係埋蔵文化財報告V博多』(福岡市教委、1986)の中に九大医学部解剖学教室の永井昌文教授(当時)による調査報告を見つけた。

 菊池武時の敗死について改めて簡単に触れておくと、後醍醐天皇に従い幕府に反旗を翻した武時は1333年(元弘3年)、幕府の九州統括機関だった鎮西探題(写真の櫛田神社近くにあったと推定されている)を攻めたが、敗れ、武時をはじめ多数が戦死。また、生き残った武時の配下は犬射馬場なる場所で斬首されたと伝えられている。

 人骨が出土したのは1978年8月のことで、この時から注目を集め、後に菊池一族の骨ではないかと大騒ぎになった。当時福岡県の文化財専門委員だった筑紫豊氏(郷土史家として著名な人物)が<1>骨の大半が頭骨<2>一緒に出土した陶磁・土器片から14世紀初頭のものと推定される<3>出土したのが犬射馬場と考えられる場所――といった理由から斬首された菊池一族説を打ち出し、これに報道機関が飛びついたらしい。筑紫氏が根拠としたのは『博多日記』という古文書で、武時の探題攻めを目撃した僧良覚が著したものだという。

 人骨について人類学的な側面からの調査を福岡市教委に依頼されたのが永井氏で、同氏は報告の中で以下の所見を挙げている。

  • ほとんどが頭骨で、すべて700~800度程度の温度で焼かれている。
  • 頭骨の数は少なくとも110体で、多くは成人男性、一部に性別不明の未成年のものを含むが、乳幼児はない。
  • 合戦の証拠とみられる刀傷を負った骨が一部にある。

 まとめると、斬首した首を火葬したものと考えられ、永井氏は「『博多日記』の記録との整合性であるが、目下のところ記載と完全に矛盾する事実は見当たらない。むしろこの日記の文献的価値を裏づけているとの感の方が強い」と記している。つまり、直接的な証拠がないため断定こそしていないものの、やはり菊池一族の頭骨である可能性が高いと見ているようだ。

 ところで、永井氏の報告は写真等を別にして4ページの短いもので、しかも『高速鉄道関係埋蔵文化財報告V博多』の中では本編ではなく、付録的な扱いだった。センセーショナルに報道された菊池一族の骨騒動だが、考古学の扱いは意外に冷淡なものだった。
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