野芥の塚穴

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 福岡藩の儒学者、貝原益軒が18世紀初頭に完成させた藩内の地誌『筑前國続風土記』に「野芥塚穴」というものが出てくる。

 <野芥村に石窟廿五所有。國俗は鬼塚と云。穴の入口は狭く、奥は廣し。皆南に向へり。左右及向の正面三方皆大石をたゝむ。上は大石を並べ、天井の如し。(中略)民俗は昔雹(ひさめ)降し時、人の隠れし所と云。或は人を葬し壙(つかあな)なりと云。皆ひがごと也。上古の時、未だ家居なくして、穴に住し時の栖(すみか)なるべし>

 益軒は墓所説等を「ひがごと(誤り)也」と一刀両断し、古代の住居説を唱えているが、上記の記述を読んだ限りでは古墳の石室と思える。野芥村とは現在の福岡市早良区野芥で、私が中高校生の頃までは完璧な農村地帯だったが、現在では市南西部の住宅地として発展しており、地下鉄の駅もできている。開発の波に押され、恐らく「野芥塚穴」は現存していないだろうと想像したが、今もあると聞いて現地を見てきた。

 油山の西の山麓に広がる住宅地を抜け、日蓮宗の寺に通じる林道をしばらく歩くと、道沿いの斜面に「塚穴」が口を開けていた。写真でわかるように、やはり古墳の横穴式石室である。しばらく山林内を歩き回り、倒壊した1基を含め計4基の石室を見つけることができた。やぶ蚊に相次いで襲撃されたため数枚の写真を撮って早々に退散したが、ちゃんとした装備でじっくり探索すれば、まだ多数の石室を確認できたに違いない。

 「塚穴」の正体を知りたいと思い、帰路に福岡市総合図書館に立ち寄り、資料を漁ったところ、意外に簡単に突き止められた。結論から言えば、西油山古墳群という6世紀後半以降に築造された群集墳で、9群41基もの古墳が狭い範囲に密集しているという。『福岡市埋蔵文化財調査報告書第240集 梅林古墳』(福岡市教委、1991)によると、油山西麓にはこの古墳群のほか、荒平、三郎丸、重留、山崎、霧ヶ滝、影塚、駄ヶ原、大谷の各古墳群があるという。これらの古墳群で確認された古墳の数を足し合わせてみると、実に250基にもなった(同報告書の発行時点での数字で、現在もすべて存在しているかはわからない)。

 福岡市内では西区の高祖山の麓に350基もの古墳が広がり、同山は“墳墓の山”とも言われているが、油山も事情は同じだったわけである。もっとも油山は、福岡市によって「市民の森」や市営牧場が整備され、市民の貴重な憩いの場となっている。間違っても墳墓の山などとは呼ばれないだろうが。

 野芥の塚穴こと西油山古墳群については市教委等による調査は行われていないようだが、大正時代に早良郡役所によって編まれた『早良郡誌』(復刻版は1973、名著出版)には「此の塚から刀剣、陶器、金環、勾玉の類を発掘したことがあった」との記述がある。“発掘”と記されてはいるが、きちんとした調査が行われたわけではなく、開墾、あるいは石材を取るために掘り起こされた際に副葬品が出てきたということではないだろうか。開墾等によって破壊された古墳は少なくないという。

 とは言っても、これらの古墳群がもっと福岡城下に近い場所にあったならば、さらに甚大な被害を受けていたに違いない。福岡城築城の際、黒田藩は近隣の古墳を片端から破壊し、石材を城の石垣などに転用したというから。

 野芥の塚穴に行く途中、道沿いの幼稚園に新幹線ゼロ系があったのでびっくりした。初めての場所を歩くのは、これだから楽しい。(20年以上も前にJR西日本から払い下げを受け、職員室や図書室として利用しているらしい)


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