うきはの円形劇場、復元を検討

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 福岡県うきは市にある「道の駅うきは」に17日立ち寄った。普段は物産直売所前の駐車場を利用するのだが、この日は満車で、少し離れた第二駐車場に車を停めたところ、敷地の外れに「円形劇場由来」と書かれた市教委設置の立て看板があるのに気付いた。看板には以下の説明が記されていた。

 通称「円形劇場」と呼ばれているこの屋外劇場は、大正十四年(一九二五年)に建設されたものです。
 「野天でもいいから数千人が一堂に会されるものがほしい」と言う嫩葉(わかば)会の提案が受け入れられ、山春村あげての奉仕と浄財によって建設されました。
 完成式は十一月二十三日の山春村招魂祭の日、工事報告の後、演説会があり、前舞台では青年相撲が披露されました。
 ギリシャ式のこの「円形劇場」はロマン・ロランの「民衆劇論」にある民衆のための新しい劇場そっくりに、野天公会堂兼劇場として安元知之氏を中心とした嫩葉会の設計によるものです。
 写真でわかるように、観覧席から見下ろす位置に舞台があり、当時としては画期的な野外劇場でした。


 連れがこの説明を読んでいたところ、近くで草刈りをしていたと思われる地元の方々が「この円形劇場は日本初のもので、現在、復元に向けて取り組んでいるんですよ」と話しかけてこられた。予備知識がない私たちにはさっぱり理解できなかったが、帰宅後に嫩葉会や円形劇場について調べてみて事情がつかめてきた。
 
 「円形劇場由来」は固有名詞が唐突に出てきて不親切極まりない文章だが、安元知之氏とは、山春村(後に合併で浮羽町→うきは市)の開業医だった人物。彼が地元の青年たちに「農作業に明け暮れるだけでなく、文化的な楽しみを持ちたい」と懇願され1923年(大正12年)に結成したのが日本初の農民劇団と言われる嫩葉会だ。嫩葉会は、安元氏の自宅2階大広間を改装した舞台で、旗揚げ公演となった菊池寛作の「屋上の狂人」など約4年の間に50作以上の戯曲を上演した。この取り組みは全国的にも反響を呼び、評判を聞いた詩人のサトウハチローが視察にもやって来たという。

 円形劇場は、嫩葉会の新たな拠点となるはずだった4,000人収容の巨大な野外劇場で、現在は「道の駅うきは」がある小高い丘の一角に建設された。しかし、安元氏は円形劇場での公演を待たずに37歳で病死。指導者を失った嫩葉会の活動は間もなく下火になり、円形劇場も現在では跡形もない――というのが嫩葉会や円形劇場の大ざっぱな沿革だ。

 「道の駅うきは」で出会った方々は、この円形劇場復元に取り組んでおられるわけで、もっと詳しい事情を知りたいと思い、市教委の文化財担当者に話を聞いたところ、劇場復元を提唱しているのは同市名物の棚田保全に尽力してきた民間団体。まだ、検討が始まったばかりの段階らしいが、うきは市の行政サイドも復元への取り組みを側面支援する考えだという。

 【追記】嫩葉会が正式に解散したのは1927年(昭和2年)8月30日。同年12月28日の読売新聞文芸欄には小説家・湯浅真生の「農民劇の諸問題(上)」と題した寄稿が掲載され、嫩葉会の解散について大きな事件として取り上げている。以下に一部を抜粋する。

 <大正十二年の春菊池寛氏の「屋上の狂人」を試演してより以来、内外の作品六十餘種を上演し、これまで何等この種の教養を有たなかった、農村の人々に近代劇を或る程度まで理解せしめ得た功績は決して小さいものではなかった。だが、この劇團も、創立以来五年を経て遂に解散をした。これも本年度に於ける大きな事件として數へなくてはならない。
 去る八月三十日夜半に『起てよ若者我等。永久の光に幸を求めて…』の會歌を合唱して青年達が悲壮な閉會の式を行ふまにではいろんな経緯はあったものゝ、この會の創立者であり指導者であった安元知之氏の死は、到底劇團の存續を許さなかった。
 最初に本紙によって紹介されてより忽ち文壇の注目をひき、續いて全国的にその存在を知られた嫩葉會は、斯うして全くその跡を絶つことになった。>

 筆者の湯浅真生とは後に“ひとのみち教団”(現在のPL教団)に入信し、幹部となった人物。記事中にもあるが、嫩葉会が全国的な注目を集めるきっかけとなったのは、彼の読売新聞への寄稿だったようだ。

 【後日譚】「遺構が残っていた円形劇場」
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