川棚のクスの森

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 この連休、山口県に行楽に行き、帰路に案内看板が目についた「川棚のクスの森」(下関市豊浦町)に立ち寄ってきた。名前から昼でも暗いような鬱蒼とした森を想像したのだが、たった1本のクスの木があるだけだった。ただし、1本でも「森」と表現されてしまう程の巨樹で、現地でもらった『下関観光ガイドブック』によると、高さ27㍍、枝張りは東西58㍍、南北53㍍に及ぶとか。そう言えば、福岡県宇美町の宇美八幡宮境内にも2本のクスの巨樹があり、こちらも「湯蓋の森」「衣掛の森」と呼ばれていることを思い出した。格別関心があるわけではないが、巨樹とはどれもが神々しい。

 帰宅後に「川棚のクスの森」についてネット検索してみると、戦国時代、中国や北部九州に一大勢力を築いていた大内義隆の愛馬「ひばり毛」がクスの木の下に葬られているとの話がWikipediaにあった。義隆が家臣の陶晴賢に滅ぼされた(大寧寺の変)際、この木の場所から見渡せる川棚川で両者は戦い、この時に「ひばり毛」は倒れたのだという。

 この記述に少し違和感を持ったので、改めて大寧寺の変について調べてみた。陶晴賢が大内氏の拠点だった山口に攻め込んだのは天文20年(1551年)8月28日。敗走した義隆は翌日には長門に逃れ、9月1日に同地の大寧寺で自害している。川棚は、山口~長門のルートから大きく西に外れているのである。Wikipediaの出典の一つ『新日本名木100選』(読売新聞社編、1990)をたまたま持っていたので、該当箇所を開いてみると、以下のように書かれていた。

 <太い幹の傍らに、小さな石の祠がある。まつられているのは、中国地方を治めた大内一族の三十一代義隆の愛馬「ひばり毛」だ。逆臣陶晴賢の軍に山口を追われ、転戦する義隆は川棚川の戦いで最期を迎えた。ひばり毛も義隆とともに戦場の露と消え、陶の武将たちの手でクスの木の下に葬られたという。>

 この一文でわかるように、『新日本名木100選』は大内義隆の最期について完全に間違っていた。何らかの伝承があったのかも知れないが、著名な戦国武将に関して、ここまで史実と異なる記述も珍しい。

 「ひばり毛」の話など所詮は伝説、民話の類で、目くじらを立てるものではないのだろうが、一片の史実もないのだろうかと不思議に思った。ただ、『豊浦町史』第3巻民俗編(1995)に次のような別の伝承が書かれていた。義隆は自害する前に、愛馬を黒井判官為長という武将に託した。しかし、この武将も義隆勢の残党狩りを進める陶晴賢と川棚川で戦って敗死し、この時に「ひばり毛」も命を落としたという。民俗編で紹介されているのだから、やはりこの話も伝説なのかもしれないが、ずいぶん説得力はあった。
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