大塚惟精と福岡藩刑場跡碑

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 福岡市中央区の天神中央公園に「福岡藩刑場跡」と刻まれた大理石の石碑があり、背後には墓石らしきもの(以下、墓石)が数基置かれている。現地には説明板などなく、どんないわれがあるのかさっぱりわからないが、中央区役所のサイトには以下のように紹介されている。

 (略)昭和の初め、この地に福岡県知事公舎があったころ、僧侶の幽霊が出るとの噂が広がりました。時の大塚惟精(いせい)知事が調べてみたところ、江戸時代に空誉上人(くうよしょうにん)が処刑されていたことが分かりました。
 早速、大塚知事は公舎の庭の隅に小祠を建て、手厚く供養しました。その名残がこの跡碑だと思われます。(以下、略)

 天神一帯は江戸時代、黒田藩重臣の屋敷が建ち並んでいた場所。このうちの明石家(子孫に日露戦争中の諜報活動で有名な明石元二郎がいる)の屋敷跡に1876年(明治9年)、県庁舎が建設された。105年後の1981年(昭和56年)、県庁は東公園に移転し、跡地に建設されたのがアクロス福岡と天神中央公園。つまり天神中央公園があった場所は藩政時代は屋敷町だったわけで、複数の郷土史家が「ここに刑場があったはずがない」と主張している。

 天神中央公園は現在でも県が管理している。そこで県に石碑の由来について尋ねたところ、区役所サイトとほぼ同内容の回答が返ってきた。空誉上人を弔う祠が建立されたのは1927年(昭和2年)で、県庁移転に伴い、跡地に中央公園を建設することが決まった際、祠では支障があるため石碑に造り替えたのだという。ただ、墓石の正体については資料がなく、回答できないとあった。

 資料が散逸したのか、それともあの墓石は県が関知しないところで何者かが勝手に設置したのか。大塚知事がこの場所を空誉上人処刑の地と見定めた経緯を含め、わからないことが多すぎる石碑だ。少なくとも「福岡藩刑場跡」というのはミスリードする名前だと思う。“空誉上人慰霊碑”みたいなものに変更したうえで、設置までの経緯をわかりやすく紹介する説明板を設置してはどうだろうか。墓石だけでなく、廃棄されたと思える石材なども周囲に散在しており、もう少し片付ける必要もあるだろう。

 祠を建立した大塚知事は熊本出身で、東京帝大出の官僚の中でも「十人並の秀才ではなく断然秀才であった」(『民政党の陣営より―政界人物評伝』角屋謹一、文王社、1930)と評された程の頭脳明晰な人物。福岡県知事の後には内務省警保局長(現在の警察庁長官)、中国地方総監(県知事の上に位置する内務官僚)などを歴任している。略歴からは幽霊騒ぎを鎮めるため祠を建立するような人物とは思えないが、意外に信心深かったのだろうか。

 彼が福岡県知事の座にあったのは1926年9月から翌年5月までの極めて短い期間だった。その理由は憲政会(後の民政党)の若槻礼次郎内閣の抜擢により福岡県知事となったが、同内閣が倒れ、代わって政友会の田中義一内閣が1927年4月に発足すると、石川県知事への転属を命じられ、怒って辞表を出したらしい(『詳説福岡県議会史 大正編下巻』1957)。在任期間は実質7ヶ月だったというから、空誉上人を弔う祠は彼が福岡に残した数少ない足跡と言えるだろう。亡くなったのは中国地方総監在任中の1945年8月6日。日付でわかるように、広島で被爆死している。

 空誉上人は藩政時代初期の福岡の高僧。処刑された理由は、藩を出奔した後、「大坂の陣」で大坂方に加わった後藤又兵衛との内通が疑われたためなど諸説ある。
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