昭和の生き証人だった「さくら寮」

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 先日書いた
「新川緑地帯にあった石碑」の中で、緑地帯から程近い大野城市の住宅街に昔、「さくら荘」という巨大な木造アパートがあったと紹介した。恐らくこの建物に関する記録など何も残っていないだろうと思っていたが、たまたま図書館で手に取った『大野城市巡杖記』(赤司岩雄、2002)にかなり詳細な記述があり、私がとんでもない勘違いをしていたと知った。真っ先に訂正しなければならないのは名前で、「さくら荘」ではなく「さくら寮」だった。(『大野城市巡杖記』著者の赤司岩雄氏は『大野城市史』の副編纂委員長)

 「寮」という名前でわかるように、完成当初はアパートではなく従業員寮だった。しかもどこの寮かと言えば、太平洋戦争中の兵器工場、陸軍小倉造兵廠の春日原分廠だ。分廠は1943年(昭和18年)、春日原競馬場の跡地(「春日原競馬場の毒餅事件」参照)に完成したが、北九州から転勤してくる従業員や徴用工員の宿舎が絶対的に不足していた。このため久留米の旅館業者が急ぎ建設したのが「さくら寮」だったという。

 『大野城市巡杖記』によると、建物は「木造二階建で北側の道路に面して玄関があり、□の字形に建てられ中央は吹き抜けの広場になっており、中央広場に面して廊下が一周してこの廊下に各戸の入り口が設けられ、一階は六帖と四帖半二間が一世帯分で約二十世帯あり、二階は四帖半一間のワンルームを主として三十世帯ほどであった」という。

 寮完成から2年後には終戦を迎え、春日原分廠が閉鎖されたため、一時お役御免となった。しかし、50世帯が入居できる巨大アパートは貴重な存在だったのだろう。程なく大陸からの引揚者の一時収容施設として活用されることとなった。つまり「さくら寮」とは、戦中・戦後の歴史を深く刻んだ戦争遺産とも言うべき貴重な建物だったのだ。

 私の記憶にある寮は、威圧感を覚えるほど巨大で黒ずんだ建物で、また内部の雑多な状態から、「新川緑地帯にあった石碑」の中では「今思えば、香港の九龍城を思わせるような雰囲気を漂わせていた」などと書いた。しかし、寮の歴史を知った今では、そんな薄っぺらな表現で語るべき建物ではなかったと恥ずかしくなる。

 入居者の減少と老朽化により、この歴史の生き証人が解体されたのは1974年頃。ちょうど私が大野城市から引っ越した直後のことで、その後何十年もこの街を訪ねたことはなかったため、取り壊しを知ることもなかった。写真は寮の跡地付近。昔から住宅街だった場所だが、私が住んでいた頃には点在していた空き地や田畑が姿を消した。一帯を歩いても記憶と一致する風景はほとんどなかったが、唯一、夏休みのラジオ体操会場となっていた神社だけがかつての姿をとどめていた。


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