向山炭鉱の廃墟

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 佐賀県伊万里市の川南造船所跡の隣接地に、向山炭鉱の廃墟が残っていることを先日紹介した(「川南造船所跡は公園になるはずでは」)。この中で「向山炭鉱も川南工業の所有だった」と書いたが、戦時中、川南工業が経営していたのは間違いないものの、戦後は別の会社が経営を引き継ぎ、1963年(昭和38年)の炭鉱閉山時は福岡の会社の所有だった。『伊万里市史 戦後編Ⅱ』(伊万里市史編さん委員会、2006)に閉山時の状況が書かれていたので、かいつまんで紹介したい。

 最初に、川南工業や向山炭鉱について改めて説明しておくと、川南工業とは、1961年に起きたクーデター未遂事件「三無事件」の主犯格、川南豊作が経営していた造船・炭鉱会社(「三無事件と川南豊作」)。伊万里市には戦時中、特攻兵器の特殊潜航艇「海龍」を製造した軍需工場・川南造船所(正式名は川南工業浦ノ崎造船所)があり、その廃墟が2012年3月まで残り、廃墟マニアの間で「超有名物件」として熱い注目を集めていた。

 一方、向山炭鉱は1917年(大正6年)に操業を始めた炭鉱。戦時中は軍需産業として隆盛を極めた川南工業が傘下に収めたが、戦後、川南工業の経営が一気に傾くと、経営権は次々に移り、閉山時は福岡市の鎮西興業が引き継いでいた。現在も残る廃墟は、石炭積み出し施設の跡だ。

 1950~60年代、国内炭は、安価な海外炭や石油との価格競争にさらされ、炭鉱経営会社は生き残りをかけて合理化を進め、労働組合と激しい闘争を繰り広げていた。最も激しく、そして有名なのは福岡県大牟田市で起きた「三井三池闘争」だが、規模こそ小さいながら向山炭鉱でも激烈な労使紛争が続いた。特に、経営権が鎮西興業に移って以降は「労使の対立はさらに険悪化」(『伊万里市史』)し、会社が雇った「保安員」と組合員との暴力沙汰も起きていたという。保安員とは、恐らくヤクザの類だろう。

 1962年(昭和37年)末には電力料金の未払いで炭鉱への送電が停止され、炭住街の電灯さえ消える事態になった。「混沌とした事態が半年以上も続いた後、昭和三八年(一九六三)七月六日に閉山した」(『伊万里市史』)。閉山時の出炭量は月産4,000㌧、従業員数は359人だったという。海上に残るシュールな廃墟は、川南造船所跡と一体のものだと思っていたが、こうして見ると、いわゆるエネルギー革命がもたらした残骸だったことがわかる。

 『伊万里市史 戦後編Ⅱ』には、三無事件に関しても面白い記述があった。事件前の1961年6月、川南豊作は伊万里市を訪れ、操業を停止していた川南造船所の再建を表明し、地元に協力を要請した。伊万里湾一帯を工業地帯とすることを目標としながら、工場誘致を実現できないでいた市や地元はこれを喜んだが、この年の12月に三無事件が発生。再建は「事件と共に雲散霧消した」という。
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