黒田綱之の墓所



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 福岡藩の第4代藩主になりそこねた黒田綱之(1655~1708)の墓が福岡市中央区天神3の少林寺にある。場所をわかりやすく言えば、親不孝通り(今では親富孝通りと書く)。飲食店やカラオケ店が建ち並ぶ一角に突如、山門が現れる。

 現在、墓所は一般人立ち入り禁止だが、境内にある案内板によると、昔は願い事をかなえたい人が多数参詣していた。その際、人々は墓石を削り取って舐めたり煎じて飲んだりしたため、墓は建立当初の高さの4分の1程になっているという。綱之が「自分の願いは叶えられなかったが、私の墓に真心を込めて祈るならば、願い事を叶えてやる」と言い残して没したためだと伝えられている。

 綱之とは、3代藩主・光之の嫡子として生まれたが、突如として廃され、30年以上も幽閉された後に没した人物。彼に代わって4代藩主となった実弟・綱政(1659~1711)に毒殺されたとも伝えられる。綱政に関しては以前、「ミイラになった黒田綱政」で取り上げたことがある。

 綱之が恐らくは恨みを残した死んだ後、綱政の跡を継ぐべき長男が1710年、29歳で早死し、その翌年には綱政も死去した。藩では綱之のたたりと恐れたという。菅原道真をはじめ、たたりをなすほどの強大なパワーを持つ怨霊は信仰の対象ともなってきた。綱之も死後、黒田家に続いた凶事が彼の怨念によるものと思われたことで、かえって人々の尊崇を集めたのだろう。いまわの際の言葉は後世の創作ではないかと思う。なお、綱之は生前に出家し、真言宗の僧侶となっていたが、墓がある少林寺は浄土宗の寺だ。

 案内板の説明にあるが、綱之が幽閉されていたのは現在の南区屋形原(やかたばる)。屋形原の地名の由来について、綱之の館があったためという説がある。しかし、綱之とほぼ同時代を生きた貝原益軒(1630~1714)は『筑前國続風土記』の中で「むかし此所に千葉探題の居宅有し故、屋形原と云」と書いており、屋形原という地名自体は綱之幽閉よりも古くから存在したと思われる。ただし、千葉氏は室町時代に力を持った豪族だったが、九州探題となったことはなく、益軒の記述自体は間違いだと指摘されている。

 先日、福岡城の復元整備に関して「単に建物の復元だけでなく、もっと福岡藩270年間の歴史にスポットを当て、物語性を付加していく取り組みが必要ではないだろうか」と偉そうに書いた(「閑散としていた熊本城宇土櫓」)。

 しかし、福岡藩の歴史を調べてみると、この綱之幽閉をはじめ、藩政初期の黒田騒動、多数の領民を餓死させた享保の飢饉、幕末の勤皇派の粛清(乙丑の獄)、「浦上四番崩れ」でのキリシタン迫害、明治になっての藩ぐるみでの偽札作り等々、名君不在の福岡藩らしく不名誉な歴史ばかりが目立つ。明治維新を導いた薩長土肥のように景気の良い話は少ない。個人的にはこれはこれで面白いとは思うが。

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