高祖山の洞窟

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 福岡市西区の叶岳(341㍍)から、同区と糸島市の境にある高祖山(416㍍)まで縦走してきた。最初に麓の今宿野外活動センターから叶岳に登った後、いったん道を引き返し高祖山を目指した。叶岳~高祖山の距離は4㌔強。険しい場所は所々あるが、きちんとした登山道が整備されている。私たちが歩いた日も小学校低学年らしき女児から高齢者まで、多くの人が縦走路をたどっていた。

 登山道の周囲は杉木立が続き、それほど変化のある道ではないが、高祖山山頂に近くにあった二つの洞窟は目に付いた。高祖山は奈良時代、吉備真備が築いた山城・怡土(いと)城があったところ。この山城跡を活用して中世には在地豪族の原田氏により高祖城が築かれた。最初はどちらかの城の遺構ではないかと思ったのだが、写真でわかるように岩盤がきれいに掘り抜かれており、むしろ防空壕のようだった。

 帰宅後にネット検索したところ、「哨戒所の防空壕」という情報があった。ただ、糸島市の公式サイトに糸島地区にあった旧軍施設が掲載されていたが、高祖山の哨戒所については情報がなかった。哨戒所とは空襲を警戒した防空監視哨のことではないかと思うが、監視哨があったとされるのは志摩岐志、二丈深江、小呂島(現在は福岡市西区)の3か所。とは言え、高祖山の防空壕らしき洞窟が相当の労力をかけて掘られたのは間違いなく、記録や関係者の証言が残されていない軍施設があったとしても不思議ではないと思う。

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 叶岳山頂にある叶嶽神社。神社のいわれを紹介する説明板が地元町内会によって設置されている。それによると、祭神は勝軍地蔵。「地蔵を祀りながら神社とは」という疑問については、神仏習合の名残であることなどが説明されている。

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 縦走路の途中には数箇所の分かれ道があるが、下山路はすべて野外活動センターに通じている。
 
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 高祖山山頂。ここに高祖城があった。城の曲輪だったことが想像できる平坦な場所だが、素人目には城の遺構らしきものは見当たらなかった。現地にあった説明板によると、発掘調査では軒丸瓦、軒平瓦などが出土し、中世としては珍しい総瓦葺の建物があったと考えられている。また、中国製陶磁器なども出土しており、籠城するためだけの城ではなかった可能性が高いという。

 【追記】『福岡の戦争遺跡を歩く』(川口勝彦・首藤卓茂、海鳥社、2010)に「この高射砲陣地(※中央区輝国にあった高射砲陣地)は軍の記録には見えない。このような例はほかにもあるようで、西区高祖にも存在したという伝聞もある」と記述があった。この伝聞通り、高祖山に高射砲陣地があったのならば、防空壕はそれに付随するものだった可能性はある。高射砲陣地ならば、空襲に絡んで証言が残されているのではないかと思い、福岡大空襲と同日にあった雷山空襲の証言集『村に火の雨が…六月十九日雷山空襲の記録』(雷山空襲を記録する会、1999)を読んでみた。

 雷山空襲とは1945年6月19日深夜、福岡を襲ったB29編隊のうちの1機が糸島上空に飛来、脊振山系の麓に位置する雷山村に焼夷弾で焼き払い、8人が犠牲になったというものだ。なぜ、米軍は山村を襲ったのか。『火の雨が降った 6.19福岡大空襲』(福岡空襲を記録する会、葦書房、1986)では米軍の記録をもとに、「誤爆」説を提示しているが、無差別爆撃と考える人もいる。

 地元で編纂された『村に火の雨が…』には、犠牲者遺族を含め生々しい体験談が数多く収録されているが、結論から言えば、高祖山の高射砲陣地に関する証言は一切なかった。雷山村から高祖山まで直線距離で6㌔。雷山村住民にとっては身近な場所のはずで、現実に複数の証言に「高祖山のふもとあたりに照明弾らしきものが投下され真昼のように明るくなった」「高祖の方から飛行機の爆音と同時にドドーンと音がした」などと高祖山(高祖)の地名は出てくる。ここに陣地があったのならば、まったく言及がないというのはあり得ないと思う。

 戦争末期には福岡の防空は事実上放棄され、多くの高射砲も南九州に移されていたとされる。雷山空襲時、高祖山の陣地は撤去されていたのかもしれないが、それでも何の証言も残されていないのは不自然だろう。個人的には高射砲陣地があったという伝聞には疑問を感じる。
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