遺構が残っていた円形劇場

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 この数日、昨年8月に書いた「うきはの円形劇場、復元を検討」(以下、前記事)という記事がずいぶんアクセスを集めていた。福岡県うきは市の「道の駅うきは」に立ち寄った際、円形劇場復元に取り組んでいる人たちと出会ったという話で、円形劇場とは1925年(大正14年)、現在道の駅がある丘の一角(当時の地名は山春村)に整備された野外劇場だ。

 なぜ、今になってこの記事にアクセスがあるのか? 不思議に思って調べてみると、うきは市教委の発掘調査で円形劇場の遺構が見つかり、7月18日午前10時から、現地説明会が開かれるとわかった。残念ながら当日は別の用事があったため参加できなかったが、道の駅での買い物ついでに20日、現地に立ち寄ったところ、舞台と思われる半円形の遺構が姿を現していた。

 劇場の規模は、想像していたよりもかなり小さいものだった。現地説明板に「数千人が一堂に会される」と書かれていることや、私自身が当たった資料の中にも「4,000人収容」とあったことから、相当大規模な劇場だったと思っていた。しかし、写真でわかるように、丘の斜面の下に幅10㍍程の小ぢんまりした舞台があるという構造で、斜面が観客席になっていたのだろう。収容人員は100~200人程度ではないだろうか。

 この劇場を拠点にするはずだったのは、地元の開業医、安元知之と農業青年たちによって1923年(大正12年)に結成された劇団「嫩葉(わかば)会」。主宰者・安元の病死により1927年(昭和2年)には解散しており、活動期間は極めて短いものだったが、“日本初の農民劇団”として大きな注目を集め、作家、詩人らが相次ぎ山春村を訪れた。また、公演は毎回大変な人気を呼び、地元住民だけでなく、遠方からも多数の人たちが訪れたため、初日は地元向け、2日目は来訪者向けと2日間の公演を行っていたという。

 嫩葉会に注目した作家の一人、湯浅真生が会解散後の1927年12月、読売新聞に寄稿した評論の一部を前記事の追記で紹介したが、彼が26年2月、同紙に4回にわたって連載した「農民劇場の問題―嫩葉會の功績と意義―」という寄稿を新たに探し当てることができた。これによると、会結成当初、「外部からの圧迫と嘲笑とは想像以上に激しかった」という。地元の知識階級からも「そんな高級な文芸が青年たちに理解せられる筈がない、今に演る興味は無くなるに違いないと冷笑された」とも書かれており、非常に興味深かった。
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