二丈岳城

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 この夏、福岡県糸島市の二丈岳(711㍍)に2度登った。最初はJR深江駅から東側の尾根をたどり(「二丈岳からの眺め」)、2度目はキャンプ場の真名子木の香ランドまで車で行き、西側から山頂を目指した。山頂からの眺めが素晴らしいことで人気の山だが、中世に二丈岳城(深江岳城、二條城など別名あり)という山城が築かれ、現在も山頂には石垣などの遺構が残ることでも知られている。

 この城に関しては、大友氏と大内氏が北部九州の覇権を争っていた室町時代の永享3年(1431年)、大友、少弐氏らが立て籠もる城を大内盛見が攻め、討ち死にしたと書かれた書籍がある。インターネット上にも同様の記述が多数あり、“二丈岳城攻めで大内盛見敗死”は史実として広く伝わっているようだが、『二丈町誌』(二丈町誌編纂委員会、2005)に意外なことが書かれていた。

 「このこと(※大内盛見が敗死した二丈岳の戦い)を記したいくつかの文書の中には城について記述したものはなく、このときに二丈岳城が存在していたかどうかは不明である」というのだ。町誌によると、城がいつ、誰によって築城されたかがそもそも不明。築城者については在地豪族の原田氏、「怡土松浦党」と称された中村弥次郎真、大友氏といった説があるが、「明確な根拠がなく結論を見出せない」という。城跡は今も明確に残るものの、成り立ちは謎に包まれた山城だったのだ。 

 もちろん、二丈岳の麓で大内VS大友の戦いが行われたのだから、「その時期から城が存在した可能性はある」(『福岡県の城郭―戦国城郭を行く』福岡県の城郭刊行会、銀山書房、2009)とする見方もある。大内が攻め寄せ、大友が迎え撃ったという戦いの構図は間違いないようなので、城があったと考える方がしっくりくる気はする。二丈岳の戦いで大内盛見を実際に討ったのは、大友・少弐勢に加わっていた菊池氏だという。元寇、鎌倉幕府討幕、南北朝の戦いと北部九州の戦乱では度々主役を演じてきた菊池氏らしいジャイアントキリングだが、この戦いから約70年後にはこの名族も滅ぶ。

 二丈岳山頂は東西に細長く、国見岩をはじめとする巨石が連なっている。巨石周辺からは古瓦の破片が多数採集されており、瓦屋根の建物があったと考えられている。この山頂に二丈岳城の主郭があったとする考えが一般的だが、『二丈町誌』は山頂を「城に付随する望楼的な機能を持った場」とし、城の中枢である主郭は山頂から北側斜面を下った尾根筋にあったと推定している。
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