岩木判官正氏の墓



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 江戸時代、早良郡庄村(現在の福岡市早良区室見一帯)の西端にあった竹林に、地元民が「岩木判官正氏墓」として畏れる石仏があったという。貝原益軒(1630~1714)が福岡藩の地誌『筑前国続風土記』の中で紹介している。岩木正氏とは『さんせう太夫』(森鴎外の小説では『山椒大夫』)の主役、安寿と厨子王姉弟の父親で、一般的には岩城正氏と書かれる。彼が帝の怒りを買い、筑紫に流されたことが姉弟の悲劇の幕開けだ。続風土記には墓について次のように書かれている。

 庄村の西の端に竹林有。其中に石仏有。村人是を岩木判官正氏が墓なりと云て甚恐る。此正氏は奥州の国主の由、児女の物語に云伝、世にもてはやし侍る事なれ共、慥ならざる事なれば、信ずるにたらず。

 『さんせう太夫』は架空の物語であり、博識な益軒は「信じるにたらず」と一刀両断しているが、続風土記にわざわざ取り上げたことを考えると、岩木正氏の墓は当時、近隣でかなり知られた存在だったのだろう。竹林の石仏がなぜ、正氏の墓だと信じられていたのか。続風土記の短い一文では想像しようもないが、「筑紫に流されたのだから、この地に墓があるはず」という考えがあったとは思う。筑紫は失脚した者や罪人が流されてくる土地だという認識が地元の人間にもあったのだろうか。

 そう言えば、高島宗一郎・福岡市長も1~2年前、自らがかじ取り役を務めるこの街を「左遷されて来る場所」と表現し、一部で物議を醸したことがある。市長の本意は「私がその認識を変えて見せる」という決意表明だったと思うが、菅原道真の例を見てもこの地が古来左遷の地だったのは紛れもない事実であり、『さんせう太夫』にもそれが反映されていたのだろう。

 なお、続風土記で「岩木判官正氏墓」の前の項目は「庄村天神社」で、この社の由来について益軒は「村翁の云伝には、菅丞相左遷の時、先此所に着給ひぬ。(中略)是によりて、後世菅公の御社を立たりと云」と書き記している。岩木正氏と菅原道真、庄村には流された2人にまつわる伝説があったわけだ。単なる偶然なのだろうか。

 かつて庄村と呼ばれた土地は現在、地下鉄沿線の住宅地となっている。西端は室見川の河畔公園として整備されており、先日、付近を散策してみたが、石仏はおろか、竹林さえも見当たらなかった。これは予想通りだったが、庄村天神社の方は、室見4丁目にある少童(わだつみ)神社(写真)のことではないかと思う。庄村天神と少童神社では名前が違いすぎるが、大正時代、別の場所にあった少童神社を天満宮(天神社)に合祀したという。
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