大淀川・丸島に遊郭はあったのか



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 5月5日に書いた「丸島のサル」の中で、大淀川河口の中州・丸島にかつて遊郭があったという情報を紹介した。情報元は宮崎遺産の候補一覧だ。宮崎県が2009年に宮崎遺産を選定した際、広く県民に候補の推薦を呼び掛け、200件以上が集まった。この候補の中に丸島もあり、その推薦理由の中に「遊郭が建っていたと昔、父親から聞いた」という証言があったのだ。(結果的に丸島は落選)

 大淀川右岸(南岸)の城ヶ崎地区が交易で栄えた江戸~明治頃の話らしいが、頻繁に水に浸かりそうな丸島で人が暮らせるとは考えられない。信じがたい証言だと思い、『宮崎市史』などいくつかの資料を当たってみたが、「丸島に遊郭があった」という記述は探し当てられなかった。ただ、市史などのオフィシャルな資料に遊郭について書かれているはずもなく、インターネット上にあった資料によると、実際に遊郭があった場所は大淀川河口近くの両岸に集中していたことがわかった。丸島は、この遊郭地帯のど真ん中に位置していたことになる。

 まず、城ヶ崎の歴史を簡単に振り返ると、大淀川河口の赤江港は古代から海上交通の要衝として栄えていたが、対明貿易が盛んだった室町時代の天文20年(1551)、太田七郎左衛門という人物が河口の一角に城ヶ崎の町を開き、ここが交易の中心地となっていった。最盛期が飫肥・伊東藩領だった江戸時代で、上方との交易で城ヶ崎の町は大いに繁栄、“赤江千軒”など称され、町人文化も花開いた。しかし、明治になり、海上輸送の主役が帆船から蒸気船に切り替わると、蒸気船が入港できない赤江港の取扱量は急減。さらに1923年(大正12年)の日豊線開通がダメ押しなり、城ヶ崎は衰退していったという。(参考資料は『宮崎市史 続編(上)』1978、『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社、1983など)

 では、城ヶ崎が栄えた時代、遊郭は具体的にどこにあったのか。関西学院大学リポジトリに収録されている宮崎バス『遊覧説明』(昭和7年)という資料に記載があった。これは名前でわかるように、遊覧バスガイド用のアンチョコで、城ヶ崎について以下のように紹介されている。

 町の一部に塩飽町(シワクマチ)と申す所が御座いますが、其の塩飽町の遊郭は、黄金の雨が降ると云った繁盛ぶりで…(略)
 北岸の蟹町にも同じ様に弦歌をさざめく色町が発達致して居りまして、相対して繁栄を競ったものだそふで御座います。

 つまり、遊郭が存在したのは城ヶ崎の一角(塩飽町)と対岸の蟹町で、蟹町とは大淀川左岸の河口付近の旧町名。丸島は城ヶ崎と蟹町のちょうど中間付近に位置することになる。さらに近代に遊郭街が形成された“吾妻新地”があったのは現在の大淀河畔のホテル街の一角で、城ヶ崎のちょうど対岸に当たる。丸島に遊郭があったとは依然として思えないが、これだけ周囲に遊郭が集中している以上、何らかの関係施設があったのかもしれないとも思い始めた。それが何かは全く想像がつかないが…。

 最近、頻繁に利用させてもらっている国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」に1948年4月に大淀川河口を撮影した航空写真があり、丸島に何らかの構造物の跡が写っている。恐らく近代のものだと思えるが、丸島に今まで全く構造物がなかったというわけではないようだ。写真は城ヶ崎の繁栄を伝える俳人墓碑。
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