黒田52万石の不思議

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 “黒田52万石”という表現に以前から疑問を持ってきた。福岡藩の初代藩主・黒田長政は1600年の関ヶ原の戦いで武勲を挙げ、豊前中津12万石から筑前52万石に栄転したことになっている。しかし、長政以前に筑前を治めていた小早川秀秋の石高は30万石にしか過ぎないのである。藩主が代わっただけで、なぜ、一気に20万石も増えたのだろうか。

 仮に52万石という数字が正しいのならば、<1>小早川時代の30万石という数字がいい加減だった<2>戦国時代の争乱が落ち着き、小早川治世時代に生産量が急増していた――といった理由を思い付いたが、実際のところはどうなのか。『福岡県史 通史編 福岡藩(一)』(1998)などをめくって調べたことはあるが、こちらの理解力不足もあって、かえって混迷を深めるだけに終わっていた。

 なにしろ県史に紹介されていた20万石急増に関する解説には「慶長九年の物成(年貢)一六万四四一一石を参照して石高を逆算した」や、「幕府との政治的関係=軍役負担に応じて、福岡藩の領知高は確定された」というものまであったのだ。額面通りに受け取れば、少なくとも藩政初期の時点では“52万石”という数字に実態がなかったことになる。これに面食らったわけだが、県史も石高のカラクリについて考察しているのだから、私の疑問もまっとうなものではあったようだ。

 先日、図書館でたまたま手に取った『物語福岡藩史』(安川巌、文献出版、1985)に明快な答えが書かれていた。長政が幕府に届け出た50万余の石高は、実際に生産高を集積したわけではなく、当初から「五拾万石ヲ得ント欲」(郡方古実備忘録)して水増しした数字だというのだ。この理由について筆者の安川氏は「家格を小早川氏と同じくするために実際以上に石高を書きあげ、それによって将軍の判物を得て自分の地位と身分を高く位置づけしようとした考えがあったのではあるまいか」と推測している。

 安川氏という郷土史家の一推理に過ぎないのかもしれないが、20万石が水増しだと考えれば、享保の飢饉での福岡藩の惨状に納得がいく。6~7万人の領民が餓死したと推定され、他藩に逃散した農民たちも多かったと言われる。過酷な年貢取り立てで農民たちはゴムが伸びきった状態になっており、飢饉の追い打ちに持ちこたえられなかったのだろう(「享保の飢饉の餓死者数」)。福岡市内のあちこちには享保の飢饉での餓死者を弔う飢人地蔵や碑が建っているが、この多くは福岡・博多にたどり着いたものの、そこで力尽きた農民たちを供養したものだという(写真下)。

 黒田52万石が喧伝されることで、小早川秀秋は妙なことになっている。関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功労者は、西軍から寝返った小早川秀秋と、寝返らせた黒田長政の2人とも言われ、小早川も筑前30万石から備前岡山50万石に大幅加増されている。しかし、小早川の後に筑前に入って来た黒田が52万石と誇ったものだから、小早川は石高を減らされたと勘違いされかねない状況だ。実際、私の好きな歴史マンガにも小早川秀秋が「関ヶ原の功労者はワシなのに、50万石に減らされ…」と徳川家康を恨んで狂死するシーンがあった。

 裏切り者、かつ暗愚な人物との評価が定着している秀秋だが、岡山藩主としては早世するまでの僅か2年の間に数々の治績を残し、岡山市は「悪評とその業績とは相容れない」と評している。過酷な年貢取り立てに加え、福岡城築城に7年間もの年月を費やし、苦役をも農民たちに強いた黒田長政などより、はるかにましな領主だったのだろう。


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