おがわ作小屋村

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 先日、宮崎県西米良村の小川地区にある「おがわ作小屋村」という施設に行き、昼ご飯を食べてきた。いわゆる村おこしのための観光施設で、食事処兼土産品店のほか、民俗資料館、コテージなどがある。作小屋とは、農繁期に村民たちが暮らしていた一種の別宅。西米良ではかつて焼き畑農業を生業の一つとしていたが、畑は集落から離れた山中にあるため、自宅とは別の生活拠点が必要だったという。もともと資料館等があった小川城址公園の一角に木造茅葺きの作小屋が復元され、7年前の2009年10月「作小屋村」はオープンした。

 西米良村は、宮崎市から車で2時間。かつては焼き畑農業が行われていたことでもわかるように、米良三山(市房山、石堂山、天包山)などの1,000㍍級の深い山々に囲まれた、まさに秘境のような土地だ。西米良村に行くのは初めてで、予備知識も全くなかったため、そんな秘境に「城址」と呼ばれる場所があることに驚いた。現在では人口100人に満たない小川地区だが、藩政時代、ここには米良山十四か村(現在の西米良村と西都市、木城町の一部)を治めた豪族・米良氏の本拠があったという。

 帰宅後に調べたところ、米良氏とは、元寇や南北朝の争乱などで活躍した菊池氏の末裔と伝えられていることがわかった。戦いに敗れた菊池一族の一人がこの地に逃れて米良氏を名乗ったという。大正時代に出版された『肥後の菊池氏』(植田均、嵩山房、1918)には「初め菊池武運(たけゆき)が島原に落ち行く時、嫡子の重為と云うのは、未だ襁褓にあったが、一家臣は武運の寄託を受け、重為を扶けて密に日向の米良山中に落ち行き之を鞠養した。重為長じて米良を領し米良石見守重次と名乗った」とあった。

 菊池武運(1493―1504)とは室町時代の武将で、1501年、一度は内乱により本拠の隈府城を追われており、重為の米良落ちはこの時の話ということになる。武運は2年後に隈府城を奪回しているが、この時の戦傷がもとで間もなく死んでいる。先が見通せない状況の中で、重為は菊池に戻されることなく、米良にとどまることになったのだろうか。秘境には貴種流離譚が付きものだが、よくある平家の落人伝説とはかなり毛色は違う気がする。

 米良山は藩政時代、人吉・相良藩の属領だったが、米良氏は幕府から旗本格として扱われ、事実上自治が認められていた。米良の山々が鷹狩り用の鷹を将軍家に献上する鷹巣山(または巣鷹山)として幕府の保護を受けていた関係らしい。なお、最後の米良山領主・米良則忠は明治維新後に菊池に改姓しており、小川城址には「菊池則忠公」として彼の座像があった。

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 ところで、作小屋村で食べたのは、地元の料理を16の小皿に並べた「おがわ四季御膳」だ。ご飯と汁物が付いて1,300円。メニューはおから天、椎茸南蛮、ゆずみそ、小川豆腐、シソ寒天などで、福岡の人間には少し味付けが甘めだったが、総じてどれも美味しく、中でもシソ寒天はピカイチだった。寒天など滅多に口にしないし、食べてもうまいと思ったことなど一度もなかったのだが。

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